近代教育 発祥の地
きんだいきょういくはっしょうのち
お茶の水駅の東口から北に渡る「聖橋」の北端にこの碑が建っている。
聖橋は神田川・JR中央・総武線の線路・外堀通りを越えて、神田駿河台と湯島方面を結ぶ橋で、関東大震災後に架橋された美しい橋である。
現在この場所は、東京医科歯科大学(附属病院)となっているが、道路を挟んだ向かい側は湯島聖堂である。かつて湯島聖堂(昌平黌)は道路のこちら側にも続いていたようで、明治期以降にこの地に設立された学校から、東京大学・東京教育大学・お茶の水女子大学などに発展していった。
近所のおなじ湯島地域に、もう一つ類似の内容を述べた表示がある。
写真
碑文
近代教育発祥の地
湯島一丁目4と5
(湯島聖堂・東京医科歯科大学)江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(
昌平黌 )があったところである。
寛政9年(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。
明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。
明治4年(1871)に文部省が設置され、我が国の近代教育の原点となる施策が展開させることになった。当地には明治5年師範学校(翌年、東京師範学校と改称)が開校し、その後、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。
東京高等師範学校は明治36年に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京女子高等師範学校は昭和7年に大塚に移転し、後に新制大学としての発足の折、この場所の地名を校名に冠し、お茶の水女子大学と称し現在に至っている。文京区教育委員会 平成19年3月
旧版は少し内容が異なる
近代教育発祥の地 (湯島1-4-5)
(東京医科歯科大学)
江戸時代、学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平黌跡である。 寛政9年(1797) 現在地に学寮、宿舎が建てられ、旗本の子弟や 全国から藩士の子弟が 青雲の志を抱いて集まった、昌平坂学問所である。
明治維新後、政府に引継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。
明治5年(1872)に文部省が誕生し、我が国学校教育の原点となった。 明治7年 師範学校が設置され、この地に 後の 東京高等師範学校、東京女子高等師範学校 が置かれたが、前者は 明治36年大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、後者は 昭和7年大塚に移転し、後に新制大学として発足の折、この地名を校名に冠し、お茶の水女子大学 と称し現在に至っている。東京都文京区教育委員会 昭和63年3月