古九谷 発祥之地
こくたにはっしょうのち
北陸本線
九谷焼は,加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主 前田利治が,領内の九谷村で鉱山開発中に陶石が発見されたのを機に磁器の生産を企画。九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎 陶業技術の修得のために肥前有田に派遣。後藤は帰藩後、九谷の地に窯を築き田村権左右衛門らを指導して,1655(明暦元)年頃に色絵磁器の生産を始めた。これが九谷焼のはじまりである。
その後 二代藩主利明に引き継がれ,この時期に焼成された作品は「古九谷」と呼ばれ,後の時代の「再興九谷」とは一線を画して扱われる。
しかしこの古九谷は約50年後,元禄の頃(1700年代初頭)に突然姿を消した。廃窯の原因は不明であるが, 事業を推進してきた二代藩主利明が死去し,さらに製陶の責任者だった後藤才次郎が元禄17年(1704) に死去して,中心人物を失ったこと,また藩財政が悪化したことにより多額の経費を要する九谷陶業が廃止された のではないかと推定されている。
古九谷の廃窯から一世紀の後に九谷焼が再興され,吉田屋窯・木崎窯・宮本屋窯・松山窯などが開かれた。古九谷が官営の窯であったのに対してこの時代の九谷焼は民営の窯で行なわれ 「復興九谷」と呼ばれ,これが明治以降まで引き継がれた。
写真
碑文
古九谷發祥之地 大聖寺
◇ 古九谷の発祥
大聖寺初代藩主前田利治は,加賀藩3代前田利常の 第3子として元和4年(1618)金沢に生まれ,寛永16年(1639)22才のとき分封をうけ,大聖寺7万石の藩主となった。母は将軍秀忠の2女であり,将軍の孫でもあり豪奢な暮らしをしていたようである。元来事業家でもあり,産業を奨励し,新田や鉱山の開発に意をそそぎ,自ら率先して事に当たった。
また,趣味も広く茶道を好み小堀遠州に私淑して陶器にも関心を持ち,茶器類を収集したり,楽焼きを試みたとも伝えられている。
時に鉱山奉行土田清左衛門や藩士後藤才次郎等の力で,金山のあった九谷に陶土が発見されたので,当時領内になかった製陶に着目して焼物を造ることが計画されるようになった。そして,その後多くの人々の辛苦が実り,2代藩主前田利明の明暦元年(1655) に,世界に冠たる色絵磁器である大聖寺焼(古九谷) を生み出したのである。