固寧倉 発祥之地
こねいそうはっしょうのち
播但線 仁豊野駅から北西に8km、神姫線 播磨高岡駅から北に9km、山陽新幹線 姫路駅から北に12km、中国自動車道 E2A 夢前I.C. から南に7km、県道80号
固寧倉は、江戸時代後期に姫路藩が整備した非常用食糧備蓄倉庫で、飢饉や災害に備えて、米・麦を備蓄した。各地で普及し、姫路藩では、文化6年(1809) 衣笠弥惣左衛門が河合寸翁に建議し藩主酒井忠道がこれを取り上げ、文化10年(1813) までに60、弘化3年(1846) までに288設置された。現在ではほぼ取り壊されて跡形も無かったり、公共的に利用されていたりまちまちで、姫路地域では8つ現存している。
以前は路地を隔てた隣地 町村公民館敷地隅にあったようだが、当地隅に動いた。
写真
碑文
固寧倉 発祥之地
固寧倉とは
江戸時代には、度々の大飢饉があり、庶民生活は、困
窮 の極に達し多くの餓死者がでました。
そこで、これらの庶民を救うために、文化六年(一八〇九)に飾西郡町村組大庄屋、衣笠弥惣左衛門氏長の主唱により時の播主酒井忠道 が河合寸翁の助力によって、食料の保管庫を各地に設置させました。
これが固寧倉のはじまりです。固寧倉の名
固とは「民は
惟 れ邦 の本、本固ければ邦寧 し」という意味の中国の経書の一節からとったものです。
扁額の題字は、儒学者、林述斎ノ直筆で、林述斎は江戸幕府の大学頭 で、現在の文部大臣要職にあたる人物です。