屈足水田発祥之地
くったりすいでんはっしょうのち
根室本線 新得駅から北東へ11km、屈足の空が広い水田地の十字路に、小振りな石標が建つ。昭和61年(1986) 建碑。わりと傾いで立っているようだが、新得町の碑は邪魔になって後からどこかの敷地に移設する傾向があるので、この石標も数年のうちにどこかの敷地が用意される可能性がないとも言えない。
大阪河内から帯広に移住していた森口茂吉が明治41年(1908) に屈足原野を借り受け、小作人を招いて開拓を始めた。明治45年(1912) 息子の森口忍は屈足西1線65番地に移住、帯広から労働者を雇い開田、稲作を開始した。しばらくは技術不足により不作が続いたが、大正に入って旭川から宮越惣太郎をを招聘して技術を学び、地域で稲作が広がり、屈足三等粳玄米として流通した。
その後、本州で品種改良が進んで国内の総生産量が増加して、米が余るようになる。屈足では昭和45年(1970) に稲作転換政策となり、稲作は終了した。
写真
碑文
屈足水田発祥之地