京西学校発祥之地
きょうさいがっこうはっしょうのち
東急 田園都市線 用賀駅から南西に300m、旧大山街道沿いに瀬田の交差点に向かうと, 途中西側に 延命地蔵(世田谷区玉川台2丁目3-15)がある。 延命地蔵尊の向い側の歯科医院前に 赤褐色の石碑が建っている。道路に面する側に「京西学校」,反対側には「京西学校発祥之地」と刻まれている。
「東京府荏原郡公立京西学校」がこの地に創立されたのは 明治12年(1879)。“京西”という名前は, 当時内務卿だった伊藤博文が“東京の西に出来た学校”という意味で命名したという。 300坪の敷地にわずか50坪の平屋・ワラ屋根・障子の建物で,職員室と教室が一つという小さなものだった。
明治19年(1886)に「京西尋常小学校」と改称。
昭和14年(1939) 現在地(用賀4丁目)に校舎を新築して移転。
昭和16年(1941) 「東京市京西国民学校」と改称。
昭和22年(1947) 新学制により「世田谷区立京西小学校」となり現在に至っている。
この発祥碑が建っている場所から 北側の道路を30mほど東に入ったところに, 「旧京西小学校跡」と刻まれた 小型の石碑が建っている。世田谷区の“玉川地団協”から発行された“世田谷ふるさとめぐり・てくたくぶっく”には 次のような説明が書かれている。
旧京西小学校跡 玉川台1-5
明治12年(1879)12月, この場所に京西小学校が創立 されました。 瀬田と用賀の村境で, 両方の村の子ども達 が通うのに便利だと, みんなが相談して決めました。
はじめ, 先生は2人, 児童は66名でした。 学校の名前 は, 用賀村の貿易商鈴木虎之助さんの知り合いで伊藤博 文(後に日本の総理大臣になった人)という人が, 東京 の西にできた学校という事で『京西』と命名しました。
その後, 明治, 大正, 昭和と児童数も年毎に増え, 校 舎も2階建へと建替が行われましたが, 昭和14年2月, 今の用賀4丁目の新校地に新校舎が完成し, 懐かしい旧 校舎に別れを告げ, 全校児童と職員の手による三日がか りの引っ越しが行われました。
ちなみに,この発祥碑の表面に書かれた「京西學校」の文字は伊藤博文の筆である。また この碑は“瀬田小学校開校三十周年”の記念として建立されている。 瀬田小学校は 昭和29年(1954)に 京西から分離した学校なので,その歴史をたどってゆくと 京西小学校の創立と同じになるため,このようなことになっているのであろう。
写真
碑文
京西学校発祥之地
昭和五十八年十一月吉日建立
瀬田小学校開校三十周年を祝う会京西學校
明治己卯十二月 伊藤博文書