日本赤十字社 発祥之地
にっぽんせきじゅうじしゃはっしょうのち
阪神電鉄 尼崎駅南、庄下川沿いの細長い敷地をもつ櫻井神社(尼崎市南城内116-11)がある。拝殿に向かい右側にごちゃっといろいろなものがあり、その中でも一際大きい「紀念碑」の足下に、黒い石板が埋め込まれてある。
弘化5年(1848)生まれ、幕末の摂州尼崎藩主 桜井
明治10年(1877)の西南戦争において、
その後、日本政府は明治19年(1886)にジュネーヴ条約に調印し、翌年には赤十字活動を担う博愛社を日本赤十字社と改称し、本拠地として東京の子爵 桜井中興邸(千代田区富士見)に移された。
かような赤十字社と桜井中興の歴史を鑑みるに、尼崎は赤十字社発祥には直接関係のある土地ではない。しかしながら、博愛社設立から赤十字社に至るまでにたいへん尽力した桜井中興の因縁の地であることには間違いない。
なお、桜井中興は明治28年(1895)に死去、享年48。明治34年(1901)に「紀念碑」が建てられた。
写真
碑文
博愛の精神
日本赤十字社発祥之地
博愛社記念碑
この碑は、幕末の尼崎藩主桜井中興が、日本赤十字社結成に際し、多大な奉仕活動を行った事蹟に対して、その功績を称える為、裏面の建設賛同者六十九名により旧尼崎城の石をもって建てられたものです。桜井中興は弘化四年(一八四七)尼崎で生まれ文久元年(一八六一)に一四才で尼崎藩主となりました。この時、藩の儒者、服部元彰が中興の腹心の部下となりました。中興藩主になって七年後幕末動乱期、主従心をあわせ最も困難な局面を乗りきりました。その精神は明治新政府になっても変わらず、西南戦争(一八七七)が起こるや私財をもって医師、看護夫を現地に派遣し、敵、味方の区別無く負傷兵の手当をしました。これが「博愛社」のおこりで、明治二〇年五月二〇日にこの「博愛社」が「日本赤十字社」と改称されました。
因みに「日本赤十字社」の社則は、その事務所が置かれた東京都千代田区の桜井邸で協議起草されました。「日本赤十字社」の発祥は元尼崎藩主桜井中興邸からのものです。
紀念碑
此碑為明治二十七八年役建也以吊死 王事者兼及櫻井中興命云博愛社之成命為之委員社後稱赤十字社故使後人不忘其恩而已久保松照映天性忠愛與同志謀醵金建此碑々成而照映亦既卒可悲哉余与照映相識乃為諸君請誌以不朽之云而
明治三十四年一月 南岳藤澤恒撰
正六位勲四等 大邨屯書