海苔人工採苗 発祥之地
のりじんこうさいびょうはっしょうのち
鹿児島本線の有佐駅から 西北西に5km。鏡町漁協(八代市鏡町野崎1028-2)の横の漁港に「海苔人工採苗発祥之地」と刻まれた石碑が建っている。
「海苔」は奈良時代以前から食されていたとされるが,これが養殖されるようになったのは江戸時代初期からである。海中に木や竹の枝(=海苔
最初に養殖が行われたのは,東京湾(有明・大森の海岸)であった。高級食材であった海苔はやがて養殖によって大衆化し,四角いシート上に乾燥させた現在のような板海苔が考案され,江戸では海苔巻きが大流行した。しかし海苔の生態は解明されておらず,養殖業者の勘や経験を頼りに種付け・養殖が行なわれていた。
昭和24年(1949),イギリスの海藻学者・ドゥルー博士が,海苔の糸状体を発見。海苔は春から秋にかけて海底の貝殻の中で過ごし,水温が低下すると繁殖するという生態が解明された。この発見を基に,人工的に海苔の種を取り養殖させられることがわかり,昭和28年(1953) に熊本県水産試験場の太田扶桑男技師が,海苔の人工採苗技術を完成させた。特許取得することはなく、この技術は全国に広まり,海苔の生産量は飛躍的に増大することになった。
熊本県宇土半島のつけ根,宇土市住吉町(有明海を一望する小高い丘の上)の住吉神社境内には,ドゥルー博士の顕彰碑が建っている。
写真
碑文
海苔人工採苗
発祥之地熊本県知事
福島譲二 書碑文
のり養殖は,沿岸漁民にとって重要な産業であり,古くから行われてきた。しかし当時は,のりの越夏状態が不明であり,天然種付けに依存していたため,生産は気象海況に左右され不安定であった。
一九四九年(昭和二十四年)に英国の海藻学者ドゥルー女史がのりの越夏状態である糸状体を発見し,それを機に,我が国ではのりの生活史の研究が進んだ。
一九五三年(昭和二十八年)に熊本県水産試験場鏡分場(所在地八代郡鏡町野崎新出 分場長太田扶桑男技師)においてのりの人工採苗に成功し,熊本県は人工採苗によるのりの養殖技術を全国に先駆けて実用化した。
この人工採苗技術によって,のり養殖は急速に発展を遂げ,今日の隆盛を見るに至った。
よってその功績を讃えると共に,のり人工採苗発祥之地として後世に伝えるため,記念碑を建立する。
記念碑建立に当たり,多大な御支援を賜った関係各位に深甚なる謝意を表する。一九九五年平成七年十月吉日
熊本県知事 福島譲二
鏡町町長 塚本静雄
熊本県漁業協同組合連合会
代表理事会長 井手正徳
鏡町漁業協同組合
代表理事組合長 宮本 勝
以下、芳名省略
糸状体の発見者
ドゥルー女史記念碑ドゥルー女史(ベーカー教授夫人)は英国一流の海藻学者で,紅藻類の生活史に関する幾多のすぐれた業績があり,昭和二十四年には,海苔のコンコセリス世代(糸状体)を発見した。以来,我が国ののり生活史の研究が進み,昭和二十八年,熊本県水産試験場鏡分場の太田技師によって,のりの人工採苗ができた。我が国ののり養殖事業はドゥルー女史の糸状体発見を土台とする,人工採苗技術の発達によって,今日の隆盛を見るに至った。女史は実に,わがのり業界の恩人と称すべく,その功績を讃え,遺徳を敬慕してここに記念碑を建立する。
昭和三十八年四月十四日除幕