ハマチ 養殖 発祥の地

はまちようしょくはっしょうのち

香川県東部 高徳線 引田ひけた駅の北方 約2kmにある潟湖ラグーン安戸あど池 の南東沿岸に看板表示がある。看板は外の瀬戸内海に向いた場所にあるが、その脇に立つ野網のあみ和三郎氏像が臨むのがハマチ養殖発祥の池、安戸池だ。

野網和三郎(1908~1969)は、地元 引田村(当時)の漁家に生まれ、昭和3年(1928)日本で初めてのハマチの養殖に成功した。技術や知識を独占することなく、日本や世界で鹹水魚養殖の道が拓かれた。

その後、水質汚染等により安戸池での商業的な大規模養殖は中止された。また、ハマチ養殖は全国的に行われており、地域のハマチのシェアは低下、地域ブランド「ひけた鰤」を展開するなど維持・巻き返しを図っている。

ハマチ養殖なのになぜブリ? ということになるが、ハマチは出世魚で、つばす~めじろ~はまち~ぶり と成長します。東日本では わかなご~いなだ~わらさ~ぶり と呼ばれたり、地域によって順番が違ったりさらに違う呼び名だったりするようです。

写真

  • ハマチ養殖発祥の地
  • ハマチ養殖発祥の地
  • 野網和三郎氏銅像 背面
  • 野網和三郎氏銅像台座背面プレート

碑文

ハマチ養殖発祥の地・安戸あどいけ

安戸池は「池」と呼ばれていますが、波や風によって運ばれた砂が積み重なってできた堤防で海と区切られた潟湖です。
古くは寛政11年(1799)の『讃岐廻遊記』や嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』など江戸時代の記録に、安戸池ボラ漁が紹介されており、古くから豊かな漁場でした。
この安戸池でハマチ養殖を成功させたのは、野網和三郎(1908~1969)です彼は東かがわ市引田(当時大川郡引田町)の網元の三男として生まれました。若いころから瀬戸内海の沿岸漁業の将来を考えており、海水魚の養殖に着目しました。当時、海水での養殖はノリやカキ、真珠程度であり、海水魚養殖は事業化されていませんでした。和三郎は海水魚養殖場として、豊かな漁場であった安戸池に注目しました。
和三郎は失敗を重ねながらも、父佐吉の協力を得て、昭和3年(1928)、安戸池でハマチ養殖の事業化に成功しました。これは日本はもとより世界で初めての海水魚養殖の成功でした。彼の「とる漁業からつくる漁業へ」という考えは、世界の海水魚の養殖の道を拓いたともいえあす。
昭和20年代には安戸池の観光化が進み、周りには旅館もありました。昭和30年代には1日に1500人もの観光客が安戸池に足を運んでいました。
現在の安戸池には、体験学習館マーレリッコや安戸池釣場などがあります。

東かがわ市教育委員会

從六位勲五等野網和三郎氏銅像

略歴

氏は明治四十一年三月引田町木場の網元野網佐吉氏の三男に生まる引田小学校卒業後三重県立志摩水産学校に学び後大正十五年三月島根県立水産学校を卒業す
氏は夙に瀬戸内海沿岸漁業不振に考ふる■あり昭和二年安戸池を利用ハマチ養殖に着目す父佐吉氏の深き理解と恊力を得幾多の苦難と失敗を重ね遂にこの事業に成功す
当時水産大学生及び一般漁業界青年この地に来り学ぶもの多くその指導の成果は日本全國を初め世界各國に及べり氏は常に語りて曰く日本の漁業特に瀬戸内海沿岸漁業は獲る漁業より栽る漁業に転換せざるべからずと今やハマチ養殖が全國的に普及し特に瀬戸内海の零網漁業を救済し更に漁業界全体の経済発展に寄与せし事計り知れず
其の功に因り昭和四十四年五月二十四日黄綬褒章を賜る而して将来ある若き漁業者の為に著書「海を拓く安戸池」を出版し後急逝す時歳六十一
其の死天聽に達するや從六位勲五等瑞宝章を追贈せらる今氏逝きて既に一年ハマチ養殖創始の地安戸池湖畔に銅像を建立して氏の偉大なる功績を長く後世に伝えんとす

野網和三郎氏銅像建設期成会
発起人
(以下芳名多数)

地図

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東かがわ市引田 付近 [ストリートビュー]