小栗判官 説話 発祥地の碑

おぐりはんがんせつわはっしょうちのひ

真岡鐵道 久下田くげた駅から南東に約6.5km、水戸線 新治にいはり駅から北西に4.5km、小栗と名の付く町の一向寺本堂前に石碑が立つ。

小栗判官おぐりはんがんといえば歌舞伎や浄瑠璃等でも演じられる伝説だが、その伝説のモデルとなったのが筑西市に城を構えた一五代城主 小栗彦次郎平助重とされる。また、伝説に縁のある各地には小栗の名が付いた地名等がある。

一向寺の過去帳には小栗彦次郎平助重の戒名等が記されており、すっかり影も形も無くなった小栗城にかわり、菩提寺である一向寺が顕彰している。

写真

  • 一向寺
  • 小栗彦次郎平助重(判官)の由来について
  • 小栗判官説話発祥之地
  • 小栗判官説話発祥之地 背面
  • 小栗判官説話発祥之地

碑文

小栗判官説話発祥地の碑

小栗の物語は民衆が生んだ壮大なロマンである。伝承によると祖は、桓武平氏の流れの平重家。常陸国小栗邑(協和町)に小栗姓を名乗り築城、十五代、約三百年間続いた名家。
 代々、小栗御厨(伊勢神領)の在地領主を務めたが、応永の戦乱で落城した。十四代満重は死、その子、助重はかろうじて脱出した。
 後の結城合戦で功を立て再興したが、次の合戦に敗れ、三河(愛知)に落ちて行く。この助重が世上知られた説経「小栗判官」に相当すると云う。助重の波瀾万丈の生涯は説話の格好の素材となった。原型は一向寺などに拠る時衆(宗)の沙弥しやみ、巫子たちが小栗と郎党の霊を慰撫する為語り始め、時宗本山遊行寺(清浄光寺)に伝えられた。更に青墓(岐阜)和泉(大阪)などの遊芸人、熊野の比丘尼ひくに達が唱導文芸として創り膨らませ、伝播させた。
 江戸期、近松門左衛門の浄瑠璃「当流・小栗判官」が人気を呼び、以后、様々な小栗ものが登場した。実像の小栗は常陸が本地だが、ここに虚像の小栗ものが入り、説話として今日に語り継がれて来た。小栗の郷は小栗判官説話発祥の地である。

桂北山一向寺五十八世 
吉水徳誉了信

建設協力者

田谷偕右
篠﨑 隆

平成十二年十月吉日

小栗十五代
城主

小栗彦次郎平助重(判官)の由来について

悲しくも「非業の毒殺」という惨事に端を発した小栗判官伝説は、室町時代の特筆される悲話として全国に広まり、脈々と平成の現代へ伝承されてきた。
その主人公「小栗判官」と称された人物は、常陸の国・小栗十五代城主小栗彦次郎平助重で、室町時代の応永九年(一四〇二)のころに、十四代城主小栗満重の子として誕生したと伝えられている。
応永三十年(一四二三)八月二日、小栗城は鎌倉公方足利持氏の攻撃を受けて落城し、小栗主従は三河(愛知県)の一族等を頼って落ちる途中の応永三十三年(一四二六)三月十六日、藤沢辺は東俣野(横浜市戸塚区)で毒殺事件にまきこまれた助重は、照手姫の機知によって九死に一生を得ることができ、時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)の他阿太空上人に助けられた。
だがその姿は無残にも餓鬼阿弥という醜い姿に変りはて、幸にして太空上人の配慮による土車(箱車)乗行となり、土車は長い旅路を多くの人達の援助によって引かれたが、中でも狂女の風体に身を変えた照手姫が土車を先に立って引いた事は、小栗外伝熊野編の有名な物語の一つである。
なんとか長い苦難の旅路を経て湯の峯温泉(和歌山県東牟婁郡本宮町)に辿り着き、霊験あらたかな壺湯で療養した結果、湯の峯の功徳と熊野権現の大きな加護を賜わり、ついに助重は蘇生して本復をとげることができた。
その後助重は、一族の小栗貞重(愛知県)に身を寄せ、一族と共に小栗復興等に尽力し、その推進対策が展開されたという。
更に相州(神奈川県)での毒殺事件の首謀者・横山大膳の征伐と、藤沢とうたく山に眠る父満重を初め、十勇家臣への菩提を弔う追善に、追考謝恩の供養を担った助重は、永亨十二年(一四四〇)、足利持氏の遺子(春王丸・安王丸)が幕府に対して挙兵・結城氏朝がこれを助けた結城合戦(一四四一)に、幕府側の武将として大いに奮戦し、その論功により、念願であった小栗領への復帰を達成することができた。
助重はその後十四年間十五代城主として君臨し、特に旧に倍した勢力の拡大が推進されたと伝えられている。
しかし助重は、亨徳四年(一四五五)うるう四月、古河公方足利しげ氏と小栗山麓で大戦となり、五月一日、奮戦拙く破れ小栗城は再び落城し、これが小栗家の最後となった。
そして助重がこの小栗合戦で何処に落ちたのか、また何れで最期をとげたのか、正確には解っていない……。
久寿二年(一一五五)の小栗家創設から、十五代に至る三百年という長き盛衰の歴史の中に生きた小栗武名は、ここに「滅亡」という非情な運命と共に無念にも儚く消えていった。
ただ、助重の菩提寺である桂北山一向寺(協和町小栗)の過去帳には、助重の戒名が「天照院殿前金意大誉崇源大居士、八十五歳没」とあり、境内には「判官助重追善の碑」が建立されていて、没日が文明十八年(一四八六)丙午八月十六日と刻されている。
この追善の碑は寛政十二年(一八〇〇)に、一向寺五十世善阿上人が旧領主であった助重の終焉を惜しみ、小栗城を間近に望むこの地で追善を表し、その菩提を一向寺に弔ったものである。
ここに桓武平氏の流れを汲んだ偉大な城主であり、悲運の名将であった「小栗判官」こと、小栗十五代城主、小栗彦次郎平助重の遺徳を称え、更に哀悼と追善への意向を表敬して、その事跡を概略ながら顕彰するものである。

(伝)桓武平氏小栗系図

(図省略)

浄土宗・桂北山一向寺
小栗公等顕彰會

平成四年三月吉日

(芳名省略)

地図

地図

筑西市小栗 付近 [ストリートビュー]