酪聯 発祥の地
らくれんはっしょうのち
千歳線
ここはかつて出納陽一氏の農場だった。1925(大正14)年に『農民のための生産組織』として「北海道製酪販売組合」が設立され、同時にこの農場を借りて仮工場としてバター製造を開始した。雪印バター誕生の記念館外に掲げられた説明にあるように、雪印バター発祥の地でもある。
《雪印バターここに生まれる》
ここは大正14年7月25日、雪印バターが初めて製造された記念すべきところです。
工場は傾斜地を利用し地下室を設け、そのうえ屋根裏も使えるように建てられています。
地下室には湧水の貯水槽があり、ここから製造室まで、鉄砲缶で水を運び上げました。
また雪利用の冷蔵庫もあり、屋根裏は工場員の宿舎に使いました。当時、工場員は6台で、設備は手回しちゃーんとハンドウオーカーのみで、1日の生産量は120ポンドから200ポンドでした。この間、春秋の厚別駅からの原料運搬は悪路に悩まされ往復に馬車で4時間もかかったといわれます。
ここに今日雪印バターを揺るぎないものとした、先人の労苦を偲ぶ貴重な建物と付属設備を保持し、歴史の一駒とするものです。昭和56年12月10日
雪印乳業株式会社
(なお、2012年に撮られた写真では、冷蔵庫や工場員の行がまるごと削除されています)
翌年全道を区域とした「北海道製酪販売組合連合会」(=酪連)となり、新工場を苗穂駅近くに竣工し、やがて雪の結晶で有名な「雪印」は全国ブランドに発展した。
太平洋戦争を前にして、1940(昭和15)年に「酪連」は「北海道興農会社」に改組され、戦後1950(昭和25)年に「雪印乳業株式会社」として新発足した。つまりこの地は「雪印乳業発祥の地」と言っても間違いではない。
この地には「雪印スケートセンター」が開設され、アイスホッケーの名門「札幌ポラリス」のホームグラウンドになって繁栄したが、2000年の雪印乳業による集団食中毒事件の影響でアイスホッケー部は閉部となり、スケートセンターも閉鎖され、企業は解体され提携企業に分割された。2002(平成14)に関連企業「雪印種苗(株)」の本社が移転してきた。
発祥碑に名前を残している黒沢酉蔵氏は、宇都宮仙太郎氏らと共に酪連を組織し、後に会長となった。またこの地に「北海道酪農義塾」を創設し、これを大学まで擁する「酪農学園」に発展させた。その後北海道興農会社の社長、衆議院議員を歴任した人物である。
『記念碑に見る北海道農業の軌跡』(北海道協同組合通信社 刊2008)によると、この碑は 1958(昭和33)年に建立された。
写真
碑文
酪聯発祥の地
昭和33年4月 黒澤酉蔵書