竹舘 産業組合 発祥之地

たけだてさんぎょうくみあいはっしょうのち

東北自動車道 大鰐弘前I.C. から北東に約7km、奥羽本線 大鰐温泉駅・弘前鉄道大鰐線 大鰐駅から北東に約10km、リンゴ産地として名高い唐竹の空き地の一角に、青森の最高峰 岩木山の石の上に御影石の石版を乗せた石碑が置かれている。

明治頃までの当地は、貧しい農村であった。地形により引水して稲作をするような平地も無かったようだ。産業としての林檎は、明治4年(1871) に日本に導入され、青森県へは明治8年(1875) 春・秋・翌年春に数百本の配布をうけて、研究心に富んだ農家によって試植された。

慶応3年(1867)、明治の前年に竹舘の大地主の家に生まれた相馬貞一は東京専門学校(後の早稲田大学)に進学するも、父親の病によってやむなく帰郷し、村内農民の生活向上を目指し、本格的にリンゴ栽培を始めた。

明治30年(1897) に栽培技術の研究と普及のため苹果栽培同志会を、37年(1904) には竹舘村園芸同好会、40年 (1907) に竹舘林檎購買販売組合を結成する。この組合は、日本で最も早く成立した本格的な産業組合とされる 。また、一人で出し抜くことよりも、地域全体で隆盛することを目標にしていただろうことがわかる。共同出荷、共同仕入れ、組合内での品質検査など、全国有数の模範的な組合になった。

また、貞一の農園である採美園で栽培されたリンゴの品質の信用は高く、各種の品評会で入賞、昭和3年(1928) には、大嘗祭献納用にも選ばれた。

組合員の教育にも熱心で、私費で図書を集め公開した大正文庫を設立したり、勉強会を開設したりした。

当地は明治22年(1889) の町村制施行により成立した竹舘たけだて村であり、その後昭和の大合併で平賀町ひらかまちに、平成の大合併で平川市となった。

写真

  • 竹舘産業組合発祥之地
  • 竹舘産業組合発祥之地 碑陰

碑文

共存同栄

竹舘
産業組合
 発祥之地

創立百年記念

秋田義信書

明治四十年(一九〇七)リンゴの共同販売を主目的とする産業組合(農協の前身)としては全国で最初の竹舘産業組合が相互扶助共存同栄の理念を掲げてこの地に創立される。区域は当時の竹舘村、尾碕村、町居村、柏木町村の四ヶ村。明治の中期までこの付近一帯は水田が少なく住民は困窮していた。そういう住民に対しりんごの植栽を推奨し、のちに産業組合の結成を提唱したのが相馬貞一である。そしてこの組合は組合員の結集よく大正五年、早くも東北一の模範組合として産業組合中央会より特別表彰を受ける。宮中からも恩賜賞を受ける。またこの組合が出荷する山竹印のりんごは東京市場などで全国一と高評される。相馬家は南津軽郡屈指の大地主で、県知事の表敬訪問をうけ秩父宮様も陸軍の演習時休憩するほどの名門だったが「羽織地主」にならず推されても政治家にならず率先垂範、自らもりんご産業に従事した。東京在学中に身につけた教養と、郷土を想う熱意の然らしむるものと考える。
昭和初年、わが国で最初にリンゴの加工に乗りだしたのもこの組合である。相馬貞一は創立当初から他界する直前まで組合長をつとめたが一貫して無報酬だった。組合の事務所、倉庫などの敷地も相馬家から無償貸与であったという。
茲に創立百年に当り有志相謀り住民一同の謝意を込めて記念碑を建立する。

撰文意匠 秋田義信
碑文揮毫 山内一義

平成十八年五月三日
   相馬貞一翁頌徳会

協賛

平賀町
津軽平賀農業協同組合
唐竹区
唐竹中山間地組合
唐竹りんご共防連絡協議会
他有志一同

「山竹印」の「山」は「〽」のような山記号で刻まれている

地図

地図

平川市唐竹苺原 付近 [ストリートビュー]