陸軍 少年飛行兵 揺籃之地
りくぐんしょうねんひこうへいようらんのち
西武拝島線 玉川上水駅から西北西に600m。武蔵村山市と立川市の境界近く,湖南衛生組合の下水処理場の西側に,上部に飛行機のプロペラをかたどったレリーフが飾られた「陸軍少年飛行兵揺籃之地」の石碑と,その隣に武蔵村山市の設置した説明板が建っている。
“少年飛行兵”とは,陸軍・海軍の航空兵のうち 徴兵によらず志願兵として募集した18歳未満の少年を訓練した制度で,その学校は 海軍は“海軍飛行予科練習生(予科練)”,陸軍は“陸軍少年飛行兵(少飛)”と呼ばれた。年齢14歳から16歳の少年達が航空適性検査を受け、競争率30倍の難関を突破して ここ“東京陸軍少年飛行兵学校”に集まり,1年間の教育訓練を受けた。卒業後はさらに操縦・技術(整備)・通信の各科に分れて上級の学校に進み,陸軍航空の中堅幹部となっていった。
この地一帯(約50万坪)は 昭和9年(1934)に,立川飛行場にあった陸軍第5飛行連隊の射爆場となり,後に射爆場が千葉県柏に移転したため, 陸軍航空学校用地に転用された。昭和13年(1938)埼玉県熊谷にあった“東京陸軍航空学校”がこの地に移転し,昭和18年(1943)に“東京陸軍少年飛行兵学校”と改称。終戦時まで 約28,000人の生徒がここで学んだ。
写真
碑文
陸軍少年飛行兵
揺籃之地史跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡
建立の趣旨
ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である
陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月,第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充養成により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され,第一期生が入校した。
終戦までに第二十期生,巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが,祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える。
昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが,このたび,永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。
若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものでる。平成二年十月十日
陸軍少年飛行兵出身者一同
少飛会平成二年庚午之歳次桂月下浣念七日
陸軍少年飛行兵第十五期生
錯錯山人鈴木格禅謹書
武蔵村山市指定旧跡
東京 陸軍少年飛行兵学校 跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定
この「揺籃之地」石碑の建っている場所には,かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。
東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者 とされていました。授業の科目は,午前中が国語・数学や兵器学など,午後は軍事教練等の術科と体操でした。また,学校北側の練兵場では,グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が終了すると,適性検査の後,操縦・整備・通信の各分野に分れた二年間の上級学校に進み,その後全国の飛行隊に配属となりました。
当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが,かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。
武蔵村山市教育委員会では,市内に大きな軍事施設が存在したことと,少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え,世界恒久平和を祈るために,その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を,「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。平成二十一年三月
武蔵村山市教育委員会