立命館 草創の地

りつめいかんそうそうのち

京都御所のすぐ東, 府立医大の図書館の敷地内の南側に「立命館学園発祥之地」碑があり、500m程南東にこの碑が建っている。

明治の元勲 西園寺公望は, 明治維新直後の明治2年(1869)に 京都御所内にあった自邸に 私塾「立命館」を開き, 新しい時代に向けた勉学を行った

明治33年(1900)文部大臣時代, 西園寺の秘書であった 中川小十郎が 西園寺の志を引き継ぎ, “清輝楼”の仮校舎に「私立京都法政学校」を設立。 これが 現在の 立命館の前身である。 翌年には 広小路学舎(現在の府立医大)に移転。
明治38年(1905) 西園寺より「立命館」の名称継承の許可を受け, 「私立立命館大学」と改称。
昭和23年(1948), 学校教育法による 新制大学「立命館大学」となる。
昭和56年(1981)に 衣笠キャンパス(京都市北区等持院北町)へ全面移転し 現在に至る。

写真

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碑文

立命館草創の地

京都法政学校設立

1900年(明治33年)5月19日

立命館大学の前身京都法政学校あ、一九〇〇年(明治三三年)五月一九日中川小十郎によってによってこの地に創立された。
ここにあった当時の有名な旗亭清輝楼を仮校舎として、六月五日から夜間授業を開始し、翌年の移転以後は八〇年間にわたっていわゆる広小路学舎(現府立医大の西構内)が中心になったが、鴨川畔東三本木のこの場所はまさに立命館草創の地といってよい。
中川小十郎は、「世界の中の一員」として日本を常に意識していた近代日本の代表的政治家西園寺公望のの最初の文部大臣在任中、特命による唯一の大学書記官として京都帝国大学(現京都大学)創立に尽瘁の傍ら、京都の地でのもう一つの「自由と清新」の学府づくりをめざしたのであった。
京都法政学校はその後、西園寺がすでに一八六九年に御所の邸内に開いた家塾“立命館”の名称を継承して、立命館大学(旧制)へと発展した。「平和と民主主義」の教学理念を加えた戦後の立命館のさらに大きな展開については多言を要しない。
なお清輝楼は、明治維新の中心的な担い手のひとり桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話でよく知られる吉田屋のあとをうけ継いだものといわれ、その後の変遷を経て一九九七年まで大和屋旅館として存続した。

二〇〇〇年三月二十三日
 学校法人 立命館
  理事長 川本八郎

立命館草創の碑建立にあたって

立命館草創の碑は、当地所有者平井邦男氏の協力により草創100周年を記念し建立。

学校法人 立命館

地図

地図

京都市上京区東三本木通丸太町 付近 [ストリートビュー]