本邦 高等女学校之濫觴
ほんぽうこうとうじょがっこうのらんしょう
京阪電鉄鴨東線の神宮丸太町駅から 西に120m。鴨川に架かる丸太町橋の西詰南側に 美しい外観の洋館“旧京都中央電話局上分局”がある。 その北東の角に 高さ1.5mぐらいの石碑が建っている。 古い石碑で文字が読みにくいが「本邦高等女学校之濫觴 女紅場址」と刻まれている。
「女紅場」(にょこうば/じょこうば)とは,明治初期に作られた女子教育機関。その最初のものが 明治5年(1872)に「新英学校及女紅場」という名称で, 日本で最初の公立女学校として この地に設置された。英国人教師による 英学(英語教育)と、女工(裁縫・手芸・読み書きなど)の二科を置いた。
この学校は 明治37年(1904)に「京都府立京都第一高等女学校」と改称。 昭和23年(1948)には 戦後の学制改革により, 男女共学の「京都府立
「女紅場」と名付けられた女子教育機関は,その後全国にたくさん作られたが, その内容は“女子高等教育機関”と“貧しい家庭の子女に対する授産施設”の2種類があったらしい。現在の「同志社女子大学」は かつて「同志社分校女紅場」と呼ばれた。しかし各地の女紅場は,いずれも 比較的短期間の内に改廃され,現在では 唯一 京都市内に「八坂女紅場学園」(祇園の舞妓・芸妓のための教育施設)が残っているのみである。
写真
碑文
本邦高等女学校之濫觴 女紅場址
従是 西九十三米 南九十米
昭和七年十月女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校
創立當初ノ名稱ニシテ明治五年四月十
四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ為母校創立六十周年記念建之
京都鴨沂会