さつま焼 発祥の地

さつまやきはっしょうのち

国道3号線を市来いちき町方面から北上し、串木野市の“酔之尾えいのお”交差点の北で右折。西薩さいさつ火葬場(木原墓地公園)方向に約500m入ると、住宅地の一画に「さつま焼発祥の地」の角柱が目に入る。傍に大きな自然石の石碑も置かれていて、足元には黒薩摩の壷が添えられている。

薩摩焼は「白薩摩」と「黒薩摩」に大別され、白薩摩は藩主の御用窯から発展したもので表面に“貫入”といわれる細かいヒビが入っているのが特徴。黒薩摩は庶民の生活の器として用いられ、素朴で剛健な焼き物として人々の暮らしにとけ込んでいる。

薩摩焼の起源は、慶長3年(1598) に文禄・慶長の役で朝鮮に出陣した島津義弘が李朝の陶工を連れ帰ったことにはじまる。以来400年以上の長い歴史の中で独自の発展をとげ、堅野系・龍門司系・苗代川系という異なる作風の系統を生みだした。

慶応3年(1867) には島津藩が単独でパリ万博に薩摩焼を出品し、世界に「SATSUMA」の名を轟かせた。現在では県内全域に窯元が存在し、さまざまな技法を凝らした作品を生み出している。

平成10年(1998) には薩摩焼400年祭を記念して郵便切手(「火計り茶碗」と「染付鳳凰文広口花瓶」の図案)が発行されている。


平成17年(2005) 10月11日、串木野市は隣接する市来いちき町と新設合併し消滅、新しくいちき串木野市の一部となった。

写真

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  • さつま焼発祥の地 碑文
  • さつま焼発祥の地
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  • さつま焼発祥の地 標柱 内側

碑文

市指定史跡
さつま焼発祥の地 碑

薩摩焼400周年記念  串木野市教育委員会

串木野市指定文化財
さつま焼発祥の地

 慶長3年(西暦1598年)12月, 島津義弘・忠恒親子は文禄, 慶長の役後, 朝鮮の陶工70余名を連れて凱旋した。そのうち鹿児島に行くことをこばんだ 安・鄭・李・張・下・朴・黄・林・車・朱・盧・羅・燕・姜・何・陳・崔・丁 と名のる男女43名は ここ島平に上陸し, 当所において, 焼き物を作り生活をささえたのである。
 当時島津家の内乱や, 関ヶ原の戦により, 藩庁の保護がじゅうぶんでなかったこと, 加えて服装・習慣・ことばの違いなどから, 土地の人々との関係がうまくいかなかったため. 5年(一説には6年)の後, 安住の地を求めて, 苗代川(美山)に移住したといわれている。
 思うに, ここ串木野の本壺屋は 日本陶芸史上重要な土地である。

串木野市教育委員会

地図

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