浅草寺観音 発祥の地
せんそうじかんのんはっしょうのち
西武池袋線
東京浅草の浅草寺の本尊・聖観音像は、ここ飯能市の岩井観音堂に安置されていたものであるという言い伝えがあり、この地は「浅草寺観音発祥の地」と言われている。岩井堂観音と浅草寺に伝えられる伝承はおおよそ次のようなものである。
継体天皇の時代、西暦507〜531頃の話。一人の旅の僧が当地に堂を起こし観音像を安置した。安閑天皇の時代、西暦531〜536年頃に大暴風雨が起こり堂が押し流され、尊像とともに崖下の激流に流され、行方不明になってしまった。それから100年の後の西暦628年頃、宮戸川(隅田川の古称)の浅草浦付近で漁をしていた
この話を伝え聞いた郷人はこの仏像は岩井堂観音であると信じ、その返還を求めたがかなわなかった。
時代が変わって、1923(大正12)年の関東大震災の後、浅草寺より岩井堂へ本尊の観音像の分身として一体の聖観音立像を奉還したいとの申入れがあり、地元岩淵村をはじめ近隣町村全てを挙げて歓迎する中を入仏式が行われた。
今では忘れられたかのように道下の崖にへばりついているが、県道歩道隅の小さな石標だけでは目に入らぬと思われたか、そのすぐ脇に大きな案内看板が設置され、「浅草観音発祥」の文言もわかりやすく表示されている。階段脇にある改築記念碑の崖側背面に略説が刻まれてあるが、なかなか目に止まらない。県道側には出資者と思しき芳名がずらーっと並んでいるだけであり、建碑者の考える優先順位がよくわかり興味深い。
また流れ着き拾われた聖観音は秘仏とされ、住職ですら見たことがないので、金色なのか、一寸八分なのか、数十年も川にながされてどうなのか、本当にあるのか無いのかどうかすらわかっていない。
写真
碑文
浅草・浅草寺観音発祥の地
岩井堂観音
管理寺
歓喜寺
浅草観音生誕地
岩井堂縁起
およそ一四〇〇年前、一人の旅僧がもたらせた観音像が嵐により転落し、成木川から浅草浦へ流れ着いた後、漁師の網で海上げされた観音像が岩井堂観音である という口碑伝承が実を結び昭和八年九月十五日 浅草観音の御分身として聖観音像が岩井堂に奉還された。同年、海上げ記念地である駒形堂が新築され、同時に 岩井堂も同様の形式で新築された。これは当時の浅草寺執事長清水谷恭順師(後の二十四世貫首)の尊い尽力によるものです。そして師が口碑伝承を真摯に受け止め、浅草観音の生誕の地を尊ばれた結果であり、深い観音信仰の顕れである。
我々の遠い祖先から受け継がれてきた信仰の象徴、岩井堂観音は郷土の誇りである。一八八会経営者会議
岸高山歓喜寺
平成二十一年六月
岩井堂觀音略縁起昭和四十年九月建之
浅草観音の発祥岩井堂観音はその昔継體天皇の御代一人の旅僧 竜間ヶ沢に具顕奇瑞を感得し尊像を安置せしと傳ふ 安閑天皇の御代大暴風雨百雷もろともに鳴り みるまに堂宇尊像崖下におし流れその行く方を知らず後百年推古天皇の三十六年隅田川にて三人の漁夫の網にかかり金色さん然たる尊像これまさしく有りし日の岩井堂觀音なり 郷人これを聞きその返還を求むれどそのかひなく改めし尊像を彫してこれを祀る たまたま聞き傳えたる今の浅草寺管長清水谷大僧正猊下は末寺善竜院より尊像を奉還して古の郷人の志をつかれ永へにその奇縁をあらたにせられた 今 堂宇新築にあたり略して記す
(役員・世話人・施工者等 芳名略)
権少僧正歡喜寺住職 児玉宣雄
石留刻
推古天皇の36年とは、たぶん西暦628年