曽我廼家 喜劇 発祥之地
そがのやきげきはっしょうのち
御堂筋 道頓堀橋南詰交差点から東に50m。大阪松竹座に向かって左端,敷地の端にやや古びた石碑が建っている。
江戸時代から続いていた即興劇ニワカが 明治時代に発展して舞台でも演じられるようになり,鶴屋団十郎一座が大阪で人気を博した。これに刺激を受けた元歌舞伎役者の中村柵之助(後の曽我廼家五郎)は同じ役者仲間の中村時代(曽我廼家十郎)を誘って「新喜劇」の看板をあげた。これが日本における“喜劇”の先駆けとなった。
五郎のアクの強い粘っこい芝居に対して,十郎はサラリとして飄々とした芝居を書き,彼等の時代の変化を敏感に捉えた,人情味のあふれる演劇のスタイルは「曽我廼家喜劇」と呼ばれ,庶民の哀歓を笑いのうちに表現し人気を博した。
大正14年(1925) 十郎の死後,曾我廼家五郎劇は 東京を始め全国各地の一流劇場を常打ちにするなど,大人気劇団となった。五郎は喉頭ガンのため無声となっても舞台に立ち続け,文字通りの「喜劇人」であった。
昭和23年(1948) 五郎が没すると,残された曾我廼家五郎劇の関係者は 松竹家庭劇と合流し,道頓堀の中座で「松竹新喜劇」を結成し,曽我廼家喜劇は 藤山寛美らに引き継がれた。
この発祥碑は,昭和50年(1975) に藤山寛美らによって,当地より東に100mほどの
碑の設置場所は、入居店舗の勝手看板を排除する目的か商業的な看板に置き換えられ、碑は中座に戻されることなく松竹座建物沿いに移されたもよう。
写真
碑文
曽我廼家喜劇発祥之地
曽我廼家五郎
曽我廼家十郎楽天会
瓢々会
喜楽会
志賀廼家淡海劇
松竹家庭劇
松竹新喜劇明治三十七年二月十一日曽我廼家五郎十郎この地に喜劇の旗幟を掲げてより 中島楽翁 初代澁谷天外 時田一瓢 田宮貞楽 志賀廼家淡海曽我廼家十吾 二代目澁谷天外 などそれにその志を継ぐこと七十年に亘りました こゝにその歴史を偲んで一碑を建立し併せて先人の名を高野山常善院に納め追慕の志といたします
昭和五十年二月十一日
藤山寛美