箏曲 組歌 発祥之地
そうきょくくみうたはっしょうのち
山口線 上山口駅から 北西に800m。八坂神社と築山神社に挟まれるような位置に大きな石碑が建っている。 ここは「築山館跡」と呼ばれ, 室町時代に 大内義弘が築いた別邸で, 弘治3年(1490) に大内氏が滅亡するまで使用された。その跡地は現在は八坂神社と築山神社になっている。
「箏曲組歌」については 資料が少なく, 碑文に書かれたこと以外はわからない。
写真
碑文
箏曲組歌発祥之地
昭和40年11月建之
題字揮毫 内閣総理大臣 佐藤栄作
発起人 箏正派家元 中島路雅楽之都
同 山口県知事 橋本正之
同 山口市長 兼行恵雄
同 山口県熊毛町 林 泰
組歌は八橋検校(一六一四~八五)が確立した箏曲の根本形式です。その整然とした楽式の源流は古くは雅楽曲〈越天楽〉にまで遡りますが, そこから発生した箏の弾き歌いの音楽は, まず中世末期に賢順(一五三四?~一六二三)により筑紫箏として大成され, さらに八橋検校による新工夫が加えられて, 今日の箏曲の創始に至りました。
一方, 数首の歌を組み合わせた歌詞については, 安永天 明の頃(一七八〇前後)の箏曲組歌の譜本「箏曲大意抄」の中に, おおよそ次のような話が伝えられています。天文年間(一五三二~五四)のこと, 山口の大内義隆卿は, 京から迎えた北の方を慰めるために, しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが, ある時その席で7人の若い殿上人が 一首ずつ歌を作り, つぎつぎに箏で弾き歌いすることが行われた。これが箏の組歌の起源であり, 歌の組合せなので組歌と言う。これゆえ最初の組歌 の曲《ふき》の歌詞は七首になったが, やがて一人が早世したため以後の曲では六首になった。
この話には疑点もあってすべてそのままには受け取れませんが, 当時この地に花開いた大内文化を考えますと, むげに否定し去れない面もあり, 興味深い所伝です。
この「箏曲組歌発祥之地」の碑は, この所伝をよすがとして箏曲組歌の誕生期に思いを馳せ, あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地各界の多数の人々の熱意と浄財によって, 昭和四十年十一月, ここ大内氏ゆかりの地に建立されたものです。昭和六十一年十一月八日 上参郷祐康述
建碑の由来
大内義隆(1507年~1551年)は武人で且つ高度 の文化人として 芸術 学問 宗武 ■■管弦 詩歌に深く心を寄せた人でありました
応仁の乱後 京都をのがれた文化人や殿上 人は 次々と大内家へ身を寄せ ここに輝や かしい地方文化の花を開かせたのであります
「箏曲組歌」はこの大内文化を母体として 生まれました。若き殿上人の楽人たちはこの 地に集まり 自己の■■を即興的に作詞作曲 して ■■の遊びの興趣を高めました 雅楽 「越天楽」の楽式による優美で気品ある風格 の高い この組曲は その■■■■■■■■ 流 生田流 山田流と 変遷を経なからうけ つがれ すぐれた伝統音楽として 今なお多 くの人々に愛奏されております
この記念碑は全国の第一線に活躍する箏曲 教授家や 箏曲を愛する篤志家が 組歌の発 祥を末永く記念して建てたものであります
大内文化の生命が現代にいきいきとよみが える時 私たちは「芸術は長く人生は短い」 の至言に敬虔の念をいっそう■めるものであ ります昭和40年(1965)11月11日■■
中島■■■■■
■=碑文判読できない