立飛企業株式会社 発祥之地

たちひきぎょうかぶしきがいしゃはっしょうのち

多摩都市モノレール 高松駅の北東側すぐ。帝三製薬など工場群の敷地の北端。工場敷地を仕切る黒いフェンスのすぐ内側に,高さ3mほどの白い石碑が建っている。

「立飛企業」の前身は「立川飛行機」。旧陸軍の立川飛行場に隣接するこの場所で,軍用機を開発・製造していたが,太平洋戦争の終結とともに 工場は米軍に接収され,米軍立川基地となった。

会社は「立飛企業」として存続し,航空機の開発が認められてからは「新立川飛行機」を設立して練習機などを製造したが 大きな成功は見られなかった。

接収地が返還されたのは昭和51年(1976) のことで,立川駅に至近の広大な土地を取り戻した後も,本業であった航空機開発・製造には戻らず,もっぱら広大な保有地を利用した不動産業に徹している。

コンクリート塀の上から撮れた写真を見るに、石碑は昭和45年(1970) 11月に、立飛企業㈱と新立川航空機㈱の連名で建てられたとわかる。ブログ立川航空宇宙博物館(TASM) : 飛行機の話予備.zip)によると、なにやらコンテンポラリーアート的な直方体オブジェクトに囲まれる位置にあったこともあるようだが、同じ場所なのか否かはよくわからない。

平成7年(1995) に多摩都市モノレールが開通。敷地内に「立飛」「高松」という2つの駅が出来,更にこの地域が市街化区域に指定されたため,大きく発展する可能性を秘めている。

立飛企業の沿革

大正13年(1924)
飛行機の設計・製作を目的として「㈱石川島飛行機製作所」を設立,中央区月島に工場新設。
昭和5年(1930)
月島工場を廃止,工場を立川に移転。
昭和11年(1936)
「立川飛行機㈱」に商号変更。
昭和20年(1945)
敗戦により事業閉鎖,会社施設が米軍により接収される。
昭和24年(1949)
第二会社(現「新立川航空機㈱」)を設立。
昭和30年(1955)
旧「立川飛行機」を「立飛企業㈱」に商号変更。
昭和36年(1961)
東証第二部に上場。
昭和40年(1965)
輸出用音響機器の製造販売及び機械部品加工を開始。
昭和51年(1976)
米軍に接収されていた立川製造所跡地が返還され,土地・建物を自動車置場及び貸倉庫として賃貸。その後 製造販売部門を縮小し,不動産賃貸部門を強化。
平成7年(1995)
立川製造所跡地(モノレール軌道周辺)が市街化調整区域から市街化区域に指定替え。
平成10年(1998)
多摩都市モノレールが部分開業し,立川製造所跡地内に“立飛駅”および“高松駅”が建設される。
平成16年(2004)
立川製造所跡地全域が市街化調整区域から市街化区域に指定替えされる。
平成18年(2006)
構内中央を通過するモノレール軌道下道路が公道(東大通線)として開通。立川製造所の名称を,東地区・西地区に名称変更。「立川基地跡地関連地区土地区画整理事業」の整備工事が終了し,換地処分が公告される。

写真

  • 立飛企業発祥之地
  • 立飛企業発祥之地 フェンスの隙間から
  • 立飛企業発祥之地 コンクリート塀の上に手を伸ばして
  • 立飛企業発祥之地 モノレール駅から

碑文

立飛企業株式会社発祥之地

裏面に沿革が刻まれているようですが,フェンスの内側のためほとんど読み取れません。ご関係の方に見てきていただきたいです。もしくは敷地に招き入れていただく方法があればお知らせください。

地図

地図

立川市高松町1丁目 付近 [ストリートビュー]