手蓑・知覧茶 発祥の地
てみのちらんちゃはっしょうのち
鹿児島から指宿に向かう“
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江戸時代、島津藩は100余りの外城を設けて藩を統治した。知覧もこの外城の一つで“麓”地区に
その跡が今も残っており「伝統的建造物群保存地区」として整備されている。武家屋敷群と「知覧麓庭園」は美しく整然とした町並みをつくり「薩摩の小京都」とも呼ばれる。また知覧町は、第二次大戦中に特攻基地が置かれた場所でもあり、その基地跡に「特攻平和会館」が建てられている。
平成19年(2007) 12月1日に
写真
碑文
手蓑・知覧茶発祥の地
江戸時代知覧の領主から急ぎの手紙を託された家臣が、ちょうどこの峠で雨に降られ立ち往生してしまいました。困った家臣は、生えていた茅を編んで蓑を作り無事手紙を届けることができました。この話を聞いた領主がこの地に手蓑の名を与えたという伝説があります。ほかにもテンノと発音することから「山頂を表す天」から天野で、それを表記するとき手蓑となったのではないか、という説もあります。
また、江戸時代の手蓑は知覧島津氏の軍役地で杉の美林がありました。明治の廃藩置県で杉山は民間へ払い下げられ、お茶が植えられました。良いお茶がとれることがわかると、町外から技術者を招き本格的なお茶の生産が始まりました。それまで知覧では、お茶を屋敷の周りや畑の隅に植えて自家用としていました。知覧が今日のような一大茶産地となるきっかけとなった山恵園という共同茶園のあった場所です。