十勝 発祥之地

とかちはっしょうのち

根室本線 新吉野駅から南におよそ10km。十勝川の河口近くの海岸に, 「十勝発祥之地」と刻まれた 見上げるように背の高い石碑が建っている。

北海道の菱形の地形の 中心部から南に向かって 日高山脈が連なり, その南端が襟裳岬として 太平洋に突き出している。この日高山脈と釧路との間が十勝地方で, 根室本線が東西に走っている。

十勝地方の開拓は 十勝川河口に位置し 水運で栄えた豊頃町の大津に始まる。文久3年(1863) に青森県出身の堺千代吉という人物が 大津に漁場を開き, 明治13年(1880) に戸長役場が置かれた。明治30年(1897) になると,二宮尊徳の孫である 二宮尊親も入植して, 十勝川沿いに 内陸の開発が進められ, 十勝は釧路に次ぐ道東の拠点として栄えた。

なお, 発祥碑の裏面は写真に撮られていないが,文献(「はるにれのころ: 鉄道員夫婦の置き土産」(大住広人著) p.240)に背面の碑文について言及されていた。

後に、敷地の道路際に、十勝近代史発祥の地なる看板が追加設置された。

写真

  • 十勝発祥の地

碑文

十勝発祥之地

碑文

徳川幕府は寛政十一年(一七九九年)今から一八〇年前に、始めて駅馬を大津に備え行客の用を便じた。 これに伴って、漁場が開発されて番屋がおかれ、旅宿所も建てられた。このように大津は、漁業発展とともに十勝内陸地帯の開発の門戸として、海運及び道路交通上の重要な拠点となったのである。文久三年、青森県の堺千代吉が大津に住みつき、漁場を経営したのが和人定住のはじめである。明治十三年に、十勝外四郡の戸長役場が大津に置かれた。この當時から内地府県よりの移住者は、艀で大津港に上陸し、十勝管内奥地に入植し、十勝の経済文化の発展の役割を果たしたので 十勝発祥の地として後世に伝えるため開基百年を記念しこの碑を建立した。

昭和五十四年十一月十六日 建立

豊頃町長神田貞雄

原文侭

十勝近代史発祥の地 ─大津─
大津の歴史ー河の賜物

大津とはアイヌ語の「ヲホツナイ」(深い枝川)に由来し、明治3年に大津と改称される。明治以前の十勝(大津)の歴史を辿ると、現在の十勝地方はアイヌの人たちの世界であり、そこへ交易を求めて、和人が進出してきた。17世紀に十勝では商場〈トカチ場所〉が開かれていたが、その実態は不詳なことが多い。
1799(寛政11)年頃、大津には番屋が置かれ、会所より官馬として馬7頭が配置された。1825(文政8)年に福嶋屋杉浦嘉七がトカチ場所を請け負い、1828年には豊漁と安全を願い十勝太に大津稲荷神社(前身)を創建した。1856(安政3)年、松浦武四郎は「日記」で大津に宿泊したと記している。1861年に青森県旧大畑町出身の堺千代吉は福嶋屋杉浦嘉七に雇われ活躍し、1863(文久3)年に大津に入ったが、そこは大津川沿にあった6戸の家と未開の地であった。その後、堺千代吉は定住し、大津発展のために寄与した。

大津の繁栄

明治に入ると、蝦夷地は北海道と改称し、十勝国には七郡が置かれた。開拓使は静岡藩に十勝郡(大津)などを与え、分領支配させたが、直ぐに終わった。
1880(明治13)年、十勝の経済圏を独占していた「十勝組合」が解散し、十勝は開放され、各地から多くの人が大津の魅力に誘われ遣ってきた。同年に「十勝外四郡各村戸長役場」が大津に設置され、十勝の行政の中心になった。この背景には川を利用しての十勝内陸部への運輸・開発にあった。ここから大津は急速なる発展の道を歩むことになる。
この発展を支えていたのが、大津を代表する鮭業であり、明治10年代の後半から同20年代にかけては豊漁が続いた。明治30年代になると鮭業に代わり大津を繁栄させたのは、開拓ブームの到来であり、「北海道国有未開地処分法」の支えもあって、移住者も大幅に急増した。
この間、明治25年に、大津~芽室間(通称大津街道)が囚人を使用して道路を開鑿され、明治30年函館~大津間には定期航路を開設するなど、交通網の整備は、十勝内陸部への開発を急速に押し進め、大津には莫大なる経済的な富をもたらした。
1897(明治30)年頃の大津は戸数300戸、人口1000人を数え、市街地には商業38、旅人宿8、料理屋6、質屋1、湯屋1、医師1、鍛冶2、理髪職2などと十勝一の賑わいを見せた。このように十勝の近代史は大津から始まるのである。

地図

地図

豊頃町大津寿町 付近 [ストリートビュー]