富山 薬学 教育 発祥之地
とやまやくがくきょういくはっしょうのち
富山市電(富山地方鉄道 軌道線)広貫堂駅から東に150m。富山の“置き薬”メーカーとして有名な“広貫堂”の向い側。駐車場入り口に,高さおよそ2.5m,幅が50cmほどのレンガ造りの柱が建っている。
17世紀半ばに加賀藩の支藩として始まった富山藩では、第2代藩主の時代に有名な“富山
江戸城で某藩主が腹痛になった折,富山の反魂丹を服用したところ劇的に回復したというエピソードがあり,これがきっかけで諸国の大名が富山の売薬行商に許可を与えたことで,各国を自由に往来して薬の販売ができるようになった。さらに富山では薬種商・製薬業の産業奨励をしたため,越中の売薬は一大産業に発展した。
富山の売薬の特徴は“配置販売(置き薬)”にある。あらかじめ一般家庭に医薬品のセットを預けておき,半年~1年ぐらいの周期で巡回し,使用された分の代金を受け取って新しい品物を補充していくシステムである。貧しい庶民にとって各種の医薬品を買い置きすることは大きな負担で,非常用の薬品を前もって預けておくシステムは画期的なもので,広く受け入れられた。
明治になると漢方医学が廃止されたり売薬に関する制度が整備され,専門知識を有する薬剤師を組織的に養成する必要が生じた。このため,製薬会社の寄附を得て1894(明治26)年に,私立の「共立富山薬学校」が この地梅沢町に設立された。
明治30年(1897) には 富山市に移管され「富山市立薬学校」と改称され,さらに「市立富山薬業学校」の名称を経て,明治40年(1907) 富山県に移管されて「富山県立薬業学校」と改称。 明治42年(1909)「富山県立薬学専門学校」に改組。大正9年(1920) 国に移管されて「富山薬学専門学校」となり,富山市奥田に移転。昭和24年(1949),国立富山大学に統合されて「富山大学薬学部」となり,現在は富山市杉谷にキャンパスがある。
この発祥碑は,奥田に残されていた「富山薬学専門学校」の門柱を,梅沢町に居住していた 一人の卒業生が譲りうけて,昭和40年(1965) に自宅の庭先である共立富山薬学校の跡地に建てたもの。
写真
碑文
富山薬学教育発祥之地
明治二十六年八月
共立富山薬学校設立
昭和四十年十月建之
旧富山薬学専門学校門柱