津軽 じょんから節 発祥之地

つがるじょんからぶしはっしょうのち

12月から3月までは通過駅となる弘南鉄道弘南線 田んぼアート駅から東に5km、国道102号のひとつ上流側の橋の左岸に、石碑と説明が設置されている。

じょんから節は、常緑川原─上川原─じょんから……と口伝のうちに変化したことに由来するという。常緑川原の由来については説明板に詳しい。また、「じょんら節」の音便で「じょんら節」と言ってるうちに、書き言葉も「じょんがら節」になったとか。どちらでもいいそうです。

写真

  • 津軽じょんから節発祥之地
  • 津軽じょんから節発祥之地
  • じょんから節発祥の由来
  • 川原 上流側
  • 川原 下流側

碑文

津軽 じょんから節 発祥之地

史跡 じょんから節発祥の地

平成十三年十一月十八日

浅瀬石地区史跡保存会

じょんから節発祥の由来

慶長二年(一五九七)二月、浅石城が大浦為信の軍勢に攻められた。戦いは浅石側の悪戦苦闘が続き、次第に劣勢が明確になってきた。神宗寺ゆかりの辻堂で、常緑和尚は主家千徳家の位牌に手を合わせ、味方の必勝を祈願していた。
二十八日の早朝、常緑和尚が心魂込めて祈っている場へ大浦の軍兵が乱入し、乱暴狼藉を働いた。和尚はこらえ切れず、山伏姿となり、散乱している位牌を拾い集めて背に付けて応戦した。しかし、力及ばず血路を開いて東の山根へ逃げ延びた。追いすがる軍兵に捕らわれそうになったので、ついに主家の位牌と共に、白岩の断崖から浅瀬石川の濁流に身を投じた。
夏になり、川原で水遊びをしていた子どもたちが、砂の中から変わり果てた常緑和尚の遺体を見付けた。村人たちはお墓をつくり手厚く葬って、常緑の墓と名付けたことから、この川原一帯が「常緑の川原」と称された。
お盆になると、村人たちはこの川原に集い、盆踊りに即興の唄を添えて千徳家や常緑の霊を慰めた。
その唄は、昔の様子を偲び、切々と嘆きが伝わってくる「口説き節」として表現された。それが「常緑の川原─常緑川原─上川原(じょうがわら)」から発生した「じょんから節」と、古くから伝えられてきている。

平成二十四年八月

黒石市教育委員会

地図

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黒石市浅瀬石櫻田 付近 [ストリートビュー]