歌志内教育発祥の地

うたしないきょういくはっしょうのち

 
撮影:
2025年2月(写真 まさ・なち さん)

根室本線 茂尻駅から南西に4.7km、歌志内小学校(歌志内市東光6-1、令和3年(2021) 閉校)のすぐ北側の空地に、石碑が横たわる。

最初の教育活動は、明治23年(1890) に旧会津藩士である星野義信が自宅で寺子屋式の教育を始めたことに端を発する。星野は戊辰戦争後に北海道に渡り、歌志内村下ノ沢地区に居住した。自らの子ども3人を対象に読み書きや算術の教育を行ったが、やがて周辺の子どもたちも集まり生徒数が増加したため、教場は下ノ沢五号長屋の一棟に移転して運営された。この私塾的な教育活動が歌志内における教育の最初の形態である。

その後、明治29年(1896) に歌志内簡易教育所が設立され、地域の子どもたちに対して一般教育が開始された。この施設は石炭採掘労働者の子弟を主な対象とし、地域の教育制度の整備が進められた。明治33年(1900) には簡易教育所が歌志内尋常小学校に改組され、正式な初等教育機関としての制度が確立した。

さらに地域の人口増加に伴い、明治40年代以降は分校や新設校が相次ぎ、歌志内市内に複数の小中学校が開設された。教育行政の整備とともに、教職員の赴任や校舎の建設も進められ、昭和初期にはほぼ市内全域に教育機関が配置される体制が確立した。

一方、空知監獄附属教場は、同時期に設置された施設であるが、これは囚人および監獄職員を対象とした教育や矯正を目的としたものであり、地域住民の子どもに対する教育とは別のものである。したがって、歌志内の教育発祥を論ずる際には、空知監獄附属教場ではなく、星野義信の寺子屋教育を起点とするのが妥当である。

これらの経緯により、歌志内の教育は私的な寺子屋から始まり、やがて公的な学校制度へと発展した。

歌志内市には6校の小学校があったが、炭鉱の衰退とともに人口が減り続け、歌志内小学校1校に。それも令和3年(2021) 3月に中学校とともに閉校し、4月からは当地から7kmほどの小中学校を統合した歌志内学園(歌志内市字文珠200)が開校した。

写真

  • 歌志内教育発祥の地 背面 碑文
  • 歌志内教育発祥の地

碑文

歌志内教育発祥の地

一八九〇(明治二十三)年 福島県人で會津藩士星野義信氏が 自宅にて三人の子女に寺子屋式教育をおこなう。その後、人数が増えたため下ノ沢五号長屋の一棟に移った。そこがこの地であり私立炭山小学校公立歌志内尋常高等小学校へと発展する出発点となったのである。

歌志内歴史資料収集・保存会 記
一九九〇(平成二)年十月七日建立 豊山書

地図

地図

歌志内市字東光 付近 [ストリートビュー]