山名氏発祥の地 / 光台寺煙草発祥の地

やまなしはっしょうのち こうだいじたばこはっしょうのち

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上信電鉄 山名駅から南東に700m、時宗 光台寺(高崎市山名町310)山門前に小振りな石版が設置された。

山名氏は、清和源氏義家流を祖とする武家であり、その発祥の地は上野国多胡郡山名郷(現在の群馬県高崎市山名町)である。祖は源義家の曾孫・源義範の子である源義清で、その子孫が地名を姓として「山名氏」を名乗った。鎌倉時代には山名義範が幕府に仕え、以後山名氏は着実に勢力を拡大していく。南北朝時代には山名時氏が足利尊氏に仕え、西国各地に守護職を得るなどして一族は繁栄を極めた。特に山名氏清の代には「六分の一殿」と称され、全国六十六カ国のうち十一カ国の守護職を掌握するまでに至った。だが、勢力の増大は将軍家の警戒を招き、応永の乱を契機に山名氏は分裂と衰退の道をたどる。とはいえ、その後も但馬を本拠とし、戦国時代まで一定の勢力を保ち続けた。発祥の地である山名郷には、山名八幡宮をはじめ、山名氏にまつわる史跡が今も残されている。


徳川中期以降、禁煙令が解かれると全国各地でタバコの栽培が行なわれるようになった。高崎の地は、寺尾村の「舘たばこ」や山名村の「光台寺たばこ」などのタバコ栽培の発祥地として全国的に知られた。江戸時代初期、この寺の境内では落ち葉を堆肥として使用し、タバコが栽培された。このタバコは「光台寺煙草」としてブランド化され、その品質の高さから評判となった。

特に、参勤交代で中山道を通行する加賀藩主の前田家に献上されていた。前田家は光台寺煙草を愛好し、その名声は次第に全国に広まっていった。また、徳川家光にも献上されるほどの高級品となり、江戸時代におけるタバコ産業の発展に大きく貢献した。

光台寺煙草の成功は、落ち葉を肥料として使うことで、独特の香りと風味が生まれていたとされる。この独自の栽培技術と、有力な大名家による庇護が、光台寺をタバコ栽培の中心地へと押し上げた。

しかし、明治時代に入り、日清戦争後の財政難を補う徴税のためにタバコの専売制度が導入され、専売所が吉井に。さらに販売のみならず栽培も管理・規制され、光台寺煙草の歴史は幕を閉じることになった。

写真


碑文

山名氏 発祥の地
光臺寺煙草発祥の地

山名やまな館跡やかたあと

龍玉山光臺寺 三十五世 超阿秀善

所在地 群馬県高崎市山名町甲三百十番地

清和源氏、新田義重の子義範は、この地山名郷を父より本貫地として与えられ、家号を山名義範と改め、此処に居を構えた。現在の此処光臺寺境内は山名館であった。初め義範は頼朝の御家人として平家討伐の搦手大将軍義経に従い、一の谷の合戦(寿永三年・1184年)に奮戦し、その武勲により、清和源氏受領六人の筆頭として伊豆守に任命されている。
次の義節より重国・重村・義長・義俊・政氏・時氏と八代にわたり居住していたが、時氏のとき、後醍醐天皇による、鎌倉幕府倒幕の勅命を受けた足利尊氏に従い 京都六波羅攻撃の為、この地より西国へ向かった。その後、建武の親政と南北朝の動乱に於いて時氏の活躍目覚しく、五ケ国の守護大名となった。四男氏清の時、十二ケ国の大守護となり、日本全国の六分の一が領国であったので、六分の一殿と呼ばれるにいたった。その後、明徳の乱(明徳二年・1391年)に於いて時氏の孫、時熈が活躍して室町幕府の重鎮となった。応仁の乱(応仁元年・1467年)では、時熈の嫡子・山名宗全が西軍の総大将として天下に、その名を轟かせ、歴史を動かした。かくて、山名氏は日本全国から啓仰されたのである。
やがて時代は戦国時代へと移り、歴代山名氏もこの戦乱を生き抜いて行くのであるが、山名氏宗家として、再び故地に戻る事なく現在に至っている。

山名氏系図(略)

平成二十五年(2013年)十一月二十八日

全國山名氏一族会 会長 山名年浩
常任理事 草山 宏

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