四日市 萬古 発祥之地

よっかいちばんこはっしょうのち

近鉄名古屋線 阿倉川駅から約400m西に 真宗大谷派 唯福寺(四日市市東阿倉川455)がある。この寺の門前に高さ2mほどの黒い石碑が建っている。

萬古焼(万古焼)は 陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される陶磁器。 四日市市の代表的な地場産業で,昭和54年(1979) から伝統工芸品に指定されている。耐熱性に優れるため,この特徴を活かした紫泥の急須や土鍋が有名。特に土鍋の国内シェアは 7~8割と言われる。

萬古焼の窯は三重県内の他の地域や 福島県二本松などにもあるが,最も名の知られたのが四日市萬古である.

萬古焼は,江戸時代中期に 桑名の豪商・沼波ぬなみ弄山ろうざんが始めた。弄山の作品には「萬古」または「萬古不易」の印が押されたのが萬古焼の名前の由来で,「萬古」とは「永遠に変わらない」という意味がある。

四日市における萬古焼は,幕末に唯福寺の住職が信楽の陶工・上島庄助を招いて窯を開いたことに始まると言われる。

写真

  • 四日市萬古発祥之地
  • 四日市萬古発祥之地
  • 海蔵庵窯趾

碑文

四日市萬古発祥之地

田端山 唯福寺

海蔵庵窯趾

 当山第十三世住職田端教正師 文政十二年江州信楽の陶工上島庄助を招き此地に窯を築き製陶を創むこれ実に四日市に於ける陶業の先駆たり 当時庄助は窯材耐火物の入手に苦慮数年に渉り近傍山野を探礦し試験すること幾十回猶適品を得るに至らず 遂に庚申山の土を以て築窯し多数の工人と用具 釉薬顔料の類は総て之を信楽に求めしも窯材不良の為辛苦惨憺想像に絶す されど師は飽く迄之れを産業化し以て貧民に職を与えんと欲し一部檀徒の反対を排し巨額の私財を抛ち遂に能く之れを完成せり 偶四日市代官多羅尾氏は同郷人庄助の関与と師の熱意に感じて大に之を庇護援助し其の御用窯と為す 然るに幕末に至り師は退官し庄助も亦嫡子失踪し慶応年間惜しくも廃絶の止むなきに至りしが工人数名は 藤井元七窯 に移り更に 山中忠左エ門 堀友直 等桑名系萬古に其の技術を合流し以て四日市萬古の基礎を作れり 教正師は老後私塾を開き子弟教導の傍陶作を楽しみ明治十四年八十三才を以て示寂す 距今百二十余年師が蒔きし一粒の種子は後萬倍し大萬古焼として□たる美果を結び巨然工業界に重要地歩を占むるに至る洵に偉なる哉 茲に其遺徳を頌し陶跡を顯せんが為有志相謀りて碑を建て以て之を不朽に伝ふ

昭和三十年文化の日

地図

地図

四日市市大字東阿倉川 付近 [ストリートビュー]