秋田の 自由民権 発祥の地
あきたのじゆうみんけんはっしょうのち
奥羽本線 横手駅から西に5km。吉田地区生涯学習センター(吉田行政サービスコーナー)の南東側に“吉田城跡”がある。城跡の北東隅,三吉神社の境内に“秋田の自由民権発祥の地”と刻まれた石碑と,その近くに説明板が建っている。
自由民権運動とは,明治時代に行われた政治・社会運動。明治維新の後 薩長による専制政治を批判し. 民選による国会の設立・屈辱的な不平等条約の改正・地租軽減 を三大スローガンとした。
中央においては,板垣退助(旧土佐藩士)・江藤新平(旧肥前藩士)らを中心とする政治運動となり, 地方においても 高知・福島・埼玉(秩父)・茨城(加波山)・長野(飯山) など全国各地で運動が発生した。これらの運動は政府による弾圧を受けながらも,明治22年(1889) の帝国憲法制定, 翌年の帝国議会の開催まで続けられた。
秋田県の自由民権運動の歴史は碑文に書かれている。この地、田ノ植は 秋田立志会の生みの親である柴田浅五郎の出身地であり, 秋田県の自由民権運動の発祥の地とされる。
写真
碑文
秋田の自由民権
発祥の地
秋田県自由民権百年記念事業
秋田の自由民権発祥の地
今から100年前,日本全土に,自由民権の運動が野火のように広がった。それは明治維新で勝利をしめた薩摩や長州が新政府を独占し専制の行ないが強かったのに対し,早く「国会を開いて国民の声を聞け」という運動だった。長く続いた封建社会から開放された国民が,自分たちの基本的権利を主張した最初の全国的な民主主義運動だったのです。
この時,わが秋田には士族や地主を中心とする北羽連合会(のちに秋田改進党) と,一般農民を中心とする秋田立志会(のちに秋田自由党)の二つの民権団体があり,ともに活発な運動を続けていた。
なかでも秋田立志会は,ここ田ノ植出身の柴田浅五郎が指導者となり,県南の町村に深く力を広げて,国会開設運動を進め,この地域は秋田の民主主義の大きな中心となった。
柴田は民権発祥の地,高知県に遊学した事もある名の知れた民権家で,明治一三年(1880)秋,2,645名の会員を代表して上京,国会開設請願書を提出し,全国から集まった民権家たちと強い運動を展開した。
しかし,藩閥政府の圧迫もあり,運動は順調にはいかず,秋田立志会も翌一四年六月,血気にはやる一部会員のおこした事件でつまずき,柴田も責任を問われて獄につながれた。
秋田立志会の人々は打撃をうけたが,自由民権の声をやめず,板垣退助らが中央で自由党を結成するや,進んでこれに入党,明治一七年には412名を数え,その大半は平鹿・雄藤の農民だった。この数字は府県単位では全国一で,県南の人々がいかに自由と民主主義を熱望していたかを示している。
こうした運動が政治を動かし,明治二〇年代の憲法発布と国会開設とを迎えたのです。昭和五十六年九月十三日
秋田県自由民権百年記念実行委員会
田ノ植協力実行委員会この説明板は田ノ植協力実行委員会の賛助金の一部を割いて設置した。