小谷城主 浅井家 発祥の地

おだにじょうしゅあさいけはっしょうのち

 
撮影:
2018年12月(写真 まさ・なち さん)

浅井長政とお市の方との悲劇のストーリーの舞台であり、後に織田信長によって攻められ落城した小谷(おだに)城。現在は土塁や郭、石垣の一部などが残るのみとなっている。

小谷丁野おだにようの町自治会館(長浜市小谷丁野町808)前に、小さな標識が掲げられている。北陸本線 高月駅と河毛駅の間、東側。

なお、湖北町は平成22年(2010)に長浜市へ編入された。

写真

  • 小谷城主浅井家発祥の地
  • 小谷城主浅井家発祥の地
  • 戦国大名浅井氏の本貫の地丁野

碑文

丁野ようの

湖北町

小谷城主浅井家発祥の地


戦国大名浅井氏(あさいし)の本貫の地 丁野(ようの)

浅井氏と丁野(長浜市小谷丁野町)の関係を語るには、竹生島(ちくぶじま)に残る2通の文書がある。1通は明応9年(1500)3月12日に、浅井氏の後室(未亡人)慶集(けいしゅう)が、子どもの浅井直政と共に、竹生島弁才天に土地を寄進したもの。もう1通は、翌10年2月9日に、陽徳院(ようとくいん)住持(じゅうじ)総充(そうじゅう)と浅井直政が、丁野郷の田地を竹生島弁才天に寄進したものである。陽徳院は丁野(丁野山北部)にあった、代々浅井氏の女子が出家し仏門に入った寺院で、総充は16世紀初めの住職であった。まだ戦国大名となる前の土豪・浅井直政(戦国大名浅井氏初代・亮政(すけまさ)の養父)が、竹生島へ土地を寄進し、また丁野にあった尼寺と密接な関係にあった事実からは、戦国大名となる以前の浅井氏が丁野を本貫としていたことは確実である。
一方、丁野集落では、亮政の4代前の祖が三条(さんじょう)公綱(きみつな)という公卿だとする伝承が根強く存在する。集落の東西に流れる川は、三条公綱に因み「東三条川」「西三条川」と呼び、公綱が高時川から取水口を造り導いたとする伝えがある。また、公綱が京都から乗って来た牛車の牛の墓が「牛塚」として伝承され、その東には「浅井家産湯の池」跡も現存する。さらに、氏神の岡本神社境内には、公綱のお手植えという銀杏の巨木も現存する。
浅井氏の本来の屋敷は「浅井家産湯の池」が所在する辺りに広がる所ではないかと推定されている。これらの伝承も、浅井氏本貫が丁野であったことを示す根拠となろう。

丁野(ようの)観音堂(かんのんどう)

丁野観音堂は、小谷丁野町の岡本神社に隣接して建立され、六臂(ろっぴ)(六本の腕)で十一面の坐像という全国的にも珍しい像容を示す観音像(長浜市指定文化財、平安時代)を本尊とする。この観音像は、丁野全体の氏仏として祀られてきたもので、現在も小谷丁野町自治会の「宮世話」によって管理されている。背中の大きな割れは、元亀元年(1570)の姉川合戦に際して、村人が本像を避難させる際、誤って落とした跡といわれる。したがって、この像も浅井氏の盛衰と無縁ではなかった。
観音堂は江戸時代の文化・文政年間(1804〜1830)に、長浜町の曳山大工として著名な藤岡重兵衛安則(ふじおかじゅうべえやすのり)によって建造されたことが、同家に残る図面類から知られる。藤岡家の図面は妻飾(つまかざり)母屋組物(おもやくみもの)向拝組物(こうはいくみもの)の型紙・下図で、上記の年号や作者名が墨書されているものがある。藤岡家は仏壇や一間堂社など、小型の造作を得意とした大工であるので、この堂のごとく間口三間で向拝付の仏堂を手がけたこと自体、非常に珍しい。なお、観音像を収める厨子も、同時代に丁野村の中島太右衛門によって寄進されたもので、その製作も藤岡安則が行なっている。

地図

地図

長浜市小谷丁野町 付近 [ストリートビュー]