千野 発祥之地
ちのはっしょうのち
根室本線 帯広駅から北に3km、十勝大橋で十勝川を渡って鈴蘭公園の方へ少し逸れた場所、
現在の音更町は、隣接する十勝地方の中心都市 帯広市のベッドタウンとして発展しており、人口減少の進む北海道の中でも数少ない人口増加が続く町となっている。
碑の建つ場所は、大型商業施設が並ぶ音更町のメインストリート、国道241号線の帯広市との市町境付近。碑に記述のある蓮佛常蔵氏の子孫から碑の建設地の土地の寄付を受けたとあるが、碑の裏手の民家の表札は蓮佛家ではなかった。現在では蓮佛氏は音更町内でも数世帯あるかないかだという。
写真
碑文
千野発祥之地
金子尚一書
明治三十一年東京市出身千野儀正氏千野農場を開設する。
当時は千野儀正、蓮佛常蔵、鷲見邦司三氏の共有地であった 管理人は蓮佛常蔵氏が就く
記念碑建立に当り現在の地権者蓮佛家より建設地の提供を受ける木野二区町内会六十五周年記念事業協賛会有志一同建立
昭和五十九年十一月吉日
千野農場跡地
明治三十一年(一八九八)、東京在住の千野儀正は河東郡下士幌、音更原野と河西郡
帯広の土地を無償で払い下げを受けました。面積約190ha、南北は下音更北一線から北三線、東西は基線から東四号までの区域。農場は音更川と十勝川の合流点で、いく度となく洪水に襲われました。
管理人の蓮佛常蔵は、小作農民の意見をよく聞いて対応していました。彼は、地域発展に尽し、住民の厚い信頼がありました。明治、大正、昭和にかけて、千野市街には百名規模の雑穀工場があって雑穀の町として繁栄しました。音更町教育委員会
平成二十五年十月