学校給食発祥の地

がっこうきゅうしょくはっしょうのち

羽越本線の鶴岡駅から南西に2km。鶴岡市立図書館の南に浄土宗の寺・大督寺だいとくじがある。寺の山門近くに「学校給食発祥記念碑在所」という案内碑が、本堂へ続く参道の脇に「学校給食発祥の地」と書かれた横長の壁のような石碑と、その前に埋め込まれた由来を記した副碑がある。

1872(明治5)年に学制が発布され,全国に小学校が置かれることになったが, 家庭生活が困窮して小学校に入れない子弟も多かった。 山形県の就学率は 当初50%に満たなかった。このため 貧しい子どもたちにも教育を与えようと,鶴岡の寺院が宗派をこえて 1889(明治22)年に 大督寺の本堂の一部を利用して“私立忠愛学校”を開設した。しかし弁当を持ってこられない子どもも多かったため、無償で昼食を支給した。この時の給食メニューは、塩むすびに魚の干物・漬物だったという。

これがわが国における学校給食の始まりとされる。

その後大正初期に東京府が一部の学校でパンによる給食を行った例もあったようだが、昭和に入ってから貧困児童や栄養不良の児童などを対象にした学校給食を実施。1944(昭和19)年になって大都市の小学生児童に米・みそ等を特別配給して給食を実施した。しかし本格的に学校給食が実施されたのは戦後になってからで、1947(昭和22)年から全国都市の児童300万人に対し学校給食を開始した。アメリカから無償で与えられた、いわゆる“ララ物資”による脱脂粉乳だった。

全国の小学校すべてにおいて完全給食が実施されたは1952(昭和27)年、中学校にも適用されたのは1956(昭和31)年のことである。

この発祥碑は1959(昭和34)年に、大督寺での給食の開始から70周年に当たることを記念して建立された。

追記 2011/11

読者の一人から次のようなコメントをいただいた。『これまで 学校給食の発祥は 1889(明治22)年とされてきたが,実際は 1892(明治25)年であった。』

学校給食発祥の原動力・霊山和尚の仏教をまとめているものです。

おにぎり施与は今、ここでみな共に生きるために仏教徒は何を為すべきか郡内の住職の合意に基づく慈善救済事業でした。私もかつて(おにぎり施与は)明治二 十二年の忠愛学校発足の年からと記していました。でも(明治二十二年は)「私立各宗協同忠愛小学簡易科学校」として発足した年でした。

明治二十一年から小学校の授業料も父母負担となったので就学率が下がり各町村の小学校も授業料無料の簡易小学校に代わった所が多かったのです。それで救貧学校として「各宗協同忠愛小学簡易科学校が」設置されたのでした。

ところが新政府は明治二十五年からは簡易小学校は廃止し尋常小学校に代えるように指示しました。忠愛学校も明治25年度から尋常小学校になったのでした。そこで初めて午後の授業が始まりお弁当持参の必要となったのです。

昭和34年に全国学校給食研究会のために忠愛学校卒業生の座談会がなされました。そのうち三人が忠愛学校発足からの入学生であることがはっきりします。うち2名がおにぎりを食べたと証言しています。明治二十五年の四年生であったということになります。

従って全国学校給食発祥は明治二十五年ということになります。「山形県教育史」平成五年刊は明治二十五年としています。

写真

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碑文

学校給食発祥の地

明治二十二年十月鶴岡の各宗寺院住職ら相図り恵まれぬ家庭の子弟教養のため大督寺内に私立忠愛小学校を開設浄財をもって子弟に弁当を給した しかるに同三十年十二月該校舎は不幸にも焼失同三十三年七月該校開設の素志達成の熱意は各宗協同忠愛協会の結成となりその資金を年々恵み薄い子弟等の給食費にあて昭和二十年まで継続した 大督寺境内におろされた給食の種子はその後全国各地に開花し昭和二十九年六月には学校給食法としてみごとに結実今や給食人員は九百万をこえ児童生徒の体位は著しく向上した ここに学校給食七十年の源をたずね先賢の慈悲の心と達眼とをしのび学校給食発祥の地に記念碑を建て永くその徳を欽慕する

  昭和三十四年十一月六日

題字
文部大臣 松田竹千代
撰文
山形県知事 安孫子藤吉
碑文揮毫
山形大学講師 管野小鶴
建立者
山形県教育委員会
鶴岡市教育委員会
全国学校給食会連合会
財団法人山形県学校給食会

地図

地図

鶴岡市家中新町 付近