庄内藩校 致道館 発祥の地

しょうないはんこうちどうかんはっしょうのち

 
調査:
2018年10月(写真 まさ・なち さん)

庄内藩七代目藩主 酒井忠徳ただありによって設置された学問所、致道館ちどうかん徂徠そらい学を教学に自主性を重んじ、各自の長所を伸ばし、質実剛健な教育文化の風土を育んだ。1805年(文化2年)に設置されたがその後鶴ヶ岡城三の丸曲輪内に移転し、1873年(明治6年)に廃校となった。移転後の致道館は1965年(昭和40年)から復元が始まり、1972年(昭和47年)から一般公開されている。現在は国指定史跡庄内藩校「致道館」(馬場町11-45)として市教育委員会によって公開が続けられている。

羽越本線 鶴岡駅から南に延びる商店街、明治安田生命(日吉町11-33)の建物前のアーケードに「発祥の地」と書かれ、建物前には旧跡碑が設置されている。この場所は、1805年に最初の致道館が置かれた場所で、現在公開されている馬場町の致道館は日吉町から始まったことをアピールしているものとみられる。

なお、説明板には「庄内藩の名君九代の酒井忠徳」が始め、十代忠器ただたかが曲輪内に移転とある。七代藩主が忠徳なのではないか? と思い、余計なことを調べてみたところ、酒井家の三代目 酒井忠勝ただかつが初代藩主となったため、藩主を数えるか酒井家頭取を数えるかで数え方の違いがある。庄内史に興味や造詣がないと、混乱してわかりにくい。

  • 酒井家三代 忠勝 = 初代庄内藩主
  • 酒井家九代 忠徳 = 第七代庄内藩主
  • 酒井家十代 忠器 = 第八代庄内藩主

写真

  • 庄内藩校致道館発祥の地
  • 庄内藩校致道館発祥の地
  • 聖廟舊趾碑

碑文

庄内藩校 致道館 発祥の地

聖廟舊趾碑

庄内藩の名君九代の酒井忠徳は、施政の根本は教育にありとして、文化二年(一八〇五年)藩校致道館をこの地一帯に建設しました。正面は南面し、東西に通用門を設け、聖廟、神庫、御入りの間講堂養老堂、會業の間、典学詰所等々を完備したものでした。中にも聖廟は学校の中枢をなし最も重要な所なので、建設にあたっては特に意をそそいで調査し、その様式を支那古代の四阿の制(寄棟造)としました。それから十年後の文化十三年(一八一六年)十代酒井忠器の代に政教一致の趣旨で曲輪内(馬場町現在地)に移されるにあたり、この地に碑を建てて舊趾をしのぶよすがとしたものであります。
学校移転後この附近は士屋敷となりましたが、一部御用地として残されたので、おそらくこの碑は御用地内に建立されたものと推定されます。明治以降は商店街として次第に発展し、羽越線開通後は駅を控えた幹線となり、現在は日吉町商店街として殷賑を極めております。
このたび、由緒あるこの地に安田生命保険相互会社鶴岡分室が建設されることとなりましたが、これを機にこの碑を保存し、舊趾を永く、後世に伝えるものであります。

昭和四十五年一月一日

鶴岡市長
社団法人庄内文化財保存会長
足達兼一郎

安田生命保険相互会社
取締役社長
水野衛夫

「聖廟舊趾碑」について

安田生命鶴岡ビル用地内に保存してまいりました「聖廟舊趾碑」を改めてここに残し、当地の歴史をしのび、あわせて後世の発展を祈願するものであります。

平成二年二月吉日

地図

地図

明治安田生命鶴岡ビル 付近 [ストリートビュー]