群馬県 能 発祥の地

ぐんまけんのうはっしょうのち

両毛線 前橋駅から西北西に約1.6km、一方通行の細い路地の多い元城下町の風情を残すこの地に、最近建てたと思われる端正な山門と塀を擁する長昌寺がある。山門に向かい左手に「群馬県能発祥の地」と刻まれた石碑が建てられている。

前橋はもとは前橋城の城下町として発展したが、話は前橋と名を改められる前の厩橋まやばし城の時代の話まで遡る。

武田が織田信長に滅ぼされた後、北条氏が上野国こうずけのくに(現在の群馬)を手中にしようとしたが、織田信長に関東管領職に任ぜられた鉄砲の名人で織田四天王として知られる滝川一益たきがわいちますは箕輪城(高崎)を経て厩橋まやばし城(前橋)に入り、ここから上野国を支配しようとした。上野国諸将を厩橋城に招き、自らが源氏物語「玉鬘たまかずら」を舞い、文武両道備える支配者であることから上野国で受け入れられた。

詳細は境内墓地入口近くにある、能舞台を模したと思しきモニュメントに副えられた石碑にあるとおりである(下記碑文参照)。

平成26年(2014) には、初めて群馬県で舞われたと記録にある玉鬘が、長昌寺本堂で蝋燭能として演じられた。

なお、「厩橋」は「うまやばし」と呼ばれることが多いが、前橋の場合は

  • 「うまやばし」→
  • 「んまやばし」→
  • 「まやばし」

と変化して、そこからさらに

  • 「まえばし」

となり、表記も引きずられて「厩橋」から「前橋」になったと考えられる。そのためか「前橋」のイントネーションは「木枯らし」「好きずき」「村下」のような2音目に抑揚あるイントネーションではなく「トラウマ」「すててこ」「村上」のような平板なイントネーションのまま残っている。

現在は前橋城の上物は無く、その地には群馬県庁や群馬県警庁舎が建っており、石積み等のわずかな面影を残すのみである。

【参考】芳林山栄興院 長昌寺

写真

  • 長昌寺の由緒 石碑
  • 滝川一益ゆかりの寺、真田氏ゆかりの寺、本城氏の墓 石碑
  • 群馬県能発祥の地
  • 群馬県能発祥の地 長昌寺山門
  • 群馬県能発祥の地 石碑背面
  • 群馬県能発祥の地 長昌寺山門
  • 長昌寺山門前 幸安橋
  • 長昌寺 本堂
  • 長昌寺境内 本城氏の墓3基
  • 長昌寺境内 ぼけ封じ観音菩薩像
  • 長勝寺境内 墓地入口  能舞台を模したと思しき「長昌寺と能」碑
  • 長昌寺と能 碑文

碑文

群馬県能発祥の地

長昌寺と能

長昌寺は群馬県における能発祥の地である。

天正十年三月武田氏は織田信長に滅ぼされた。信長は滝川一益に上野国と信濃国小県・佐久二郡を与え「関東管領職」に任じた。一益は五月厩橋城に上野国内の諸将を招き、自ら『玉鬘』を舞い、嫡子・於長が小鼓を、岡田太郎右衛門が大鼓を打った。六月十一日には長昌寺で「能組十二番書立、舞台をヲ拵、瓶ヲ十二フセ、総構ヲ大竹ニテ二重」にと、能興業をおこなった。

これが記録に残る本県最初の演能である。

(手島 仁)

地図

地図

前橋市紅雲町 長昌寺 付近 [ストリートビュー]