牛乳 発祥の地

ぎゅうにゅうはっしょうのち

伊豆急下田駅から東に2km、下田湾の北東。海岸から100mほど北東に入った山裾に、曹洞宗 玉泉寺がある。

山門を入ると正面に本堂があり、その前面に「牛乳の碑」と書かれた大きな褐色の四角い石碑が建っている。中央のレリーフには 乳牛と戯れる家族、左上には タウンゼント・ハリスの肖像があって、その両脇に次のような文章が書かれている。

安政5年(1858) 2月、米国総領事タウンゼント・ハリスが病気療養中に牛乳を求めたことから、玉泉寺に滞在していたハリスのため、近隣の村から牛乳が調達された。

この経緯は、柿崎村名主・与平治の日記に具体的に記録されている。2月3日、外国人係から牛乳を求められ、下役人が白浜村へ派遣された。翌4日には白浜村から5、6勺ほどの牛乳が届けられ、玉泉寺へ差し出された。5日には、今後は毎日2合ほど調達するよう求められ、さらに周辺地域へ牛乳を求める動きが広がった。

ハリスに提供された牛乳は、白浜村をはじめとする近隣の村から集められたもので、約2週間にわたる総量は9合8勺とされる。その代金は1両3分88文であった。牛乳の調達と代金の支払いが記録として残っていることから、この出来事は単に外国人が牛乳を飲んだというだけでなく、日本における牛乳の売買を示す歴史的事例として位置付けられている。

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写真

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碑文

牛乳発祥の地

ここ玉泉寺は,日本で最初に
牛乳が飲まれたところです。
当時を想いながらおいしい
牛乳を飲みませんか!

牛乳発祥の辞

安政五年正月廿一日北風晴天
今午後八ッ時頃上氣船江戸表
より上り來当湊入津致候

註ハリス病気にて歸着

同二月三日
今夕異人御掛り様より被仰
候は牛の乳少々異人所望につ
き下役人二人白浜村へ願遣候

同月四日
昨晩白浜村へ注文致置候牛の
乳五六勺ほど送り來候につき
玉泉寺へ差上候

同月五日
玉泉寺異人掛りより牛の乳
これより日々二合斗りつも
調へ度由被仰候につき白浜村
に遣し候 但し庄八出役

同月六日北風晴天夕方曇
今朝白浜村へ忠右エ⻔出役牛
の乳少々持参玉泉寺へ差上
候なほ次々も注文致可候や
り被仰候につき久四郎中村
連台寺へ行申候

以上柿崎村名主与平治
御用日記より抜萃

昭和五十年一月十四日

村上節 書

牛乳の碑

農林大臣  河野一郎

安政五年(一八五八年)二月米国総領事タウンゼントハリスは政務多忙を極め病床にありました  侍女お吉は ハリスが牛乳を欲するのを知り禁を犯して下田近在から和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです  その時ハリスが十五日間に飲んだ九合八勺の牛乳の代価が一両三分八十八文之は米三俵分に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったかが分かります  このことが日本に於ける牛乳売買の初めといわれます。爾来百余年牛乳は現在重要な国民栄養食糧として年生産一千余万石に達し酪農事業は重要な国策となりました。乳業の発達は国富の充実と共に前途益々洋々たるものがあります。

タウンゼント ハリスは、
一八〇四年米国ニューヨーク州に生れ
一八五六年来日し一八六二年帰国その間
初代米国総領事として日米親交の基礎を築く
一八七九年二月七五才で没した
伊豆は当社創業の地であり且つ下田に工場をもつゆかりの地でありますので下田と牛乳とを記念して

一九六二年五月十七日

森永乳業株式会社
取締役社長 大野 勇建之

地図

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下田市柿崎 付近