安政年間 日本最初 米国領事館

あんせいねんかんにっぽんさいしょべいこくりょうじかん

下田湾の北東。海岸から100mほど北東に入った山裾に、曹洞宗の寺・玉泉寺がある。その山門前に いくつかの石碑が建っていて、その一つに「日本最初 米国領事館」の文字が刻まれている。

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日米和親条約の結果として1854年に開港された下田港にはペリー艦隊が入港し、ここに臨時の米国総領事館を置くことを決めた。当時中国に滞在していたタウンゼント・ハリスは、初代駐日領事となることを希望、米国政府により派遣されて、1956(安政3)年に下田に到着した。

彼は、通訳兼書記官として オランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケン等と共に、宿舎として与えられた玉泉寺に滞在することになった。言葉の不自由な異国の地に10人前後の少人数で生活するのは 大変な不便と苦痛を強いられたことは容易に想像できる。

下田においては 船舶の燃料や水の補給などをおこなうための“下田協定”を1857(安政4)年に調印し、また 日本貨幣と米国貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行い、1ドル銀貨は同じ質量の一分銀3枚と交換すべきと主張。最終的にハリスの主張が通され 多額の小判が日本国外へ流失する結果となった。

また アメリカの砲艦の来航に乗じて江戸まで行き、直接将軍(13代家定)との謁見を許可され、大統領の親書を読み上げている。

1858(安政5)年には 大老・井伊直弼により“日米修好通商条約”が締結されたため、初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して江戸の元麻布・善福寺に公使館を移した。

ハリスは 1862(文久2)年に病気を理由に辞任の意向を示し、5年9か月間の日本滞在を終えて帰国した。 (後任はロバート・H・プリュイン)

玉泉寺山門横に掲げられた玉泉寺の説明板には、次のように書かれている。

史跡 玉泉寺

安政元年に締結された下田追加条約によってアメリカの休息所となり寺域内に同国人の墓地が設けられることになった。つづいて同三年八月アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは下田に上陸してこの寺を住居とし同月九日始めて領事旗を掲げ以後同六年六月まで総領事館となった。

本堂はハリスの居室、ヒュースケンの居室及び事務室があって当時の規模をよく伝えており幕末外交史上重要な史跡である。尚、本堂の北側にアメリカ人の墓地、南側にロシア人の墓地がある。

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碑文

安政年間
日本最初 米国領事館

史跡 昭和廿九年六月九日指定

地図

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下田市柿崎31-6 玉泉寺 付近