鹿鳴館 時代の 発祥地

ろくめいかんじだいのはっしょうち

地下鉄千代田線 日比谷駅。その最も南の出口から南に100m。帝国ホテルと その南隣の大和生命ビルの境界に, 低いコンクリートの壁があるが, その大和生命側の壁面に「鹿鳴館跡」の説明パネルがある。

千代田区内幸町の高層ビル、NBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)。江戸時代には薩摩藩装束屋敷、そして明治時代には鹿鳴館が設置されていた。鹿鳴館は 明治の初期に建てられた“国営社交場”あるいは“迎賓館”的施設の名称。

はりつけや打ち首などの残酷な処刑が明治になってもまだ行われており、居住する西洋人からはまだまだ野蛮な国だとされていた日本。明治政府は 西洋諸国との不平等条約改正交渉のためには 日本が文明国であることを示す必要があると考え, 明治13年(1880) に建設を開始し, 3年がかりで明治16年(1883) に落成した。 設計は, ニコライ堂や古河邸などを造ったジョサイア・コンドル。

鹿鳴館では外国からの賓客接待や明治天皇誕生日の祝賀会などの行事も行われた。 夜会・舞踏会には 西洋風に着飾った男女が集まり, 新しもの好きの人には文明開化の象徴と映り 「鹿鳴館時代」の到来となった。反面、日本の伝統を重んじる人々からは「亡国」であると非難された。

鹿鳴館は およそ10年間使われた後, 1890(明治23)年に 宮内省に払い下げられて華族会館として使用され, 昭和2年(1927) には 現在の大和生命保険に売却され, 昭和15年(1940) に解体された。

もともと文字には白色の色入れされていたようだがはげ落ち、平成30年(2018) の訪問時はたいへん読みづらかったので、千代田区観光協会のページも参照した。

リンク

千代田区観光協会予備.zip

写真

  • 鹿鳴館時代の発祥地
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  • 鹿鳴館時代の発祥(2018)
  • 鹿鳴館時代の発祥(2018)

碑文

鹿鳴館跡

ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった
その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった

千代田区

地図

地図

千代田区内幸町 付近