秦野 水道 発祥の地
はだのすいどうのそうせつ
小田急線 秦野駅の北西約1km。曽屋神社の斜め向かいに曽屋配水場跡地である曽屋水道記念公園(秦野市水神町9-23)があって, その敷地内に 「曽屋水道」の説明板が建っている。すぐ近くには「紀年碑」と書かれた大きな石碑も建っているが, 風化して碑文は読めない 読みにくい部分がある。
ここは かつて曽屋水道の浄水場が設置されていた場所。現在は「曽屋配水場」と呼ばれる 公園になっている。説明板の設置時期は不明だが, かなり古くなっていて 上半分の文字は読み取るのが非常に困難。
秦野市の水道は明治23年(1890) に給水を開始した「曽屋水道」に始まる。 これは全国的にも非常に早く, 横浜・函館についで3番目と言われる。それ以前に飲用水として用いられていた用水路から コレラが伝染し 多数の犠牲者を出したことを契機に 陶管を利用した水道が敷設された。延長5kmと 比較的小規模なものだったが, 技術上の援助のほかは 区債を発行して無尽養老会を組織し、一切を住民が費用負担した。
配水管には地元産の陶管が用いられ、専用栓50箇所、共用栓(30間ごとに設置)、消火栓などに給水が行われた。これは横浜などの開港地に先駆けて建設された近代水道とは異なり、地方の町村が自力で建設した日本初の近代的簡易水道とされる。
大正12年(1923) の関東大震災で 水道施設や配水管は破損したため, 陶管は鉄管に 貯水池は地下式配水池に改良して復旧された。昭和45年(1970)から 市内13系統に分かれていた水道を統合整備し, 秦野市水道は一本化された。
「曽屋配水場(曽屋公園)」は令和2年(2020) 3月に曽屋水道記念公園と改称し、「秦野水道発祥の地」看板が公園入口に掲げられた。
曽屋水道は平成29年(2017) 10月13日に国の登録記念物(遺跡関係)に登録され、近代水道施設としてこの種の登録は全国初の事例となった。
説明板の経年変化で平成18年(2006) 訪問時はすでに読みづらくなっていた。平成25年(2013) のストリートビューではすでにステンレスの新しいものに変わっているようだ。
写真
碑文
秦野水道発祥の地
~ 1890年(明治23年) 3月15日給水開始 ~
曾屋水道記念公園
国登録記念物(遺跡関係)
秦野水道の創設 ═ 曽屋水道 ═
秦野南の水道は明治二十三年に当時の曽屋村を舞台に誕生しました。 それ以前人々は曽屋神社及び乳牛水神社の湧水を用水路に流して 飲用や洗い物などに使用していました。しかし、人口の増加に伴い、源泉附近では「清麗珠の如き水」も下流に従い混濁し、また、降雨の際は路上の泥砂塵が用水路に流入して飲用することは非常に困難になり、さらに明治十二年八月にはこの用水路を介してコレラが発生し、八十一人もの患者がで、二十五人もの犠牲者を出しました。 これを契機に識者の間で飲料水改良の対策が検討され 『簡易陶管ヲ使用シテ水道ヲ敷設シタルハ曽屋水道ヲ以テ嚆矢トナス』と決意を示し、明治二十年三月に水道工事委員三十七名の連署をもって、県へ飲料水改良に關する工事を設計を出願し、また、明治二十一年三月「水道布設工事監督願」と「曽屋村水道工事規約及び議事規則の認可を申請し、同年四月に県の事業認可を得ました。その後同年九月に『衛生ノ道ヲ講スルト同時ニ土地繁栄ノ基ヲ為シ全国ニ自営ノ範ヲ示スベシ』という意志を宣明して更に水道工事申合規約を制定して、明治二十三年三月十五日横浜・函館に次いで全国三番目に給水を開始しました。
- 給水区域
- 上曽屋・中曽屋・下曽屋・大道・乳牛・中宿・下宿・片町・池ノ島・台町
- 給水人口
- 四千十人
- 給水戸数
- 八百二戸
- 給水管
- 愛知県常滑製内径三寸(九センチメートル)の陶管
延長 一里九町四間(四千九百十六メートル)
水源 曽屋神社に湧出する二個の清泉を使用- 浄水工場
- 位置は現在の曽屋配水場
面積 五百坪(一千六百五十平方メートル)
形状 沈澄池・濾過池・貯水池の三池からなる。- 専用栓
- 五十口(使用料年額一円)
- 共用栓
- 五十口 三十間(五十五メートル)ごとに設置
- 事業費
- 一万千三百六十五円
説明板製作協力
駿河銀行
横浜銀行
中栄信用金庫
紀念碑
曽屋上水道紀念碑
神奈川縣知事従四位勲三等半井 清題額
此の地は往昔曽屋村と稱する寒邨に過ぎさりしも夙に水利の恵澤を受くること大なり享保八年の頃井大明神及乳牛水神社の境内となり湧出せる泉水を引き道路の側に用水堀を設けて飲用に供す後煙草製造の業盛なるに及び大道通發達も人口の増加するに伴ひて飲料水の缺乏を告ぐ安政四年三月佐藤安五郎氏私財を投じて井大明神の湧出口より北方に向■壹百間の隧道を開鑿して多量の清水を得なほ大道通用水堀五百間に改修を加へ翌年二月竣功す而も當時水道に器物を洗ひ水質も汚■するもの多く剰へ降雨の際路上の砂泥塵芥流入し清洌珠の如き淨水は化して椈すべからざる汚水と變す仍りて識者の間にこれが改善の議起りたりしも荏苒久しきに亘りて實行を見ずな■なま明治十二年八月虎疫發生して八十一人の患者を出し内二十五人死亡す當時内務省派遣技師の調査によれば飲料水の不潔なるに起因すといへり明治二十一年に至り上水道建設の議いよいよ進みその三月水道工事委員佐藤政𠮷氏外三十六氏連署戸長奥津彌平氏の奥印大住淘綾郡長佐藤喜左衛門宛飲料水改良に関する設計出願をなす尋いて神奈川縣より土木技師岩田武夫屬大橋鎮二の兩氏派遣せられ土地の状況を實地測量との結果簡易陶管水道を敷設するの計画を立て其の目論見書及び繪圖靣を下附せらる同年九月水道工事由合規約を制定し上曽屋中曽屋下曽屋大道乳牛上宿中宿下宿片町臺及池の島を以て敷設區域と定め前記委員中より梶山良助川口直二郎の二氏を工事擔當人に選定し縣派遣技師實地監督の下に同年十一月を以て工を起し同二十三年三月十五日悉皆竣功し五十の專用栓を三十間づヽを隔つる共用栓及數ヶ所の消火栓に配水を行ふこの総工費實に壹萬壹千三百六十五圓を算するや町長村上長兵𫟘氏曽屋區會の決議を經二十三年より七ヶ年賦を以て償還すべき金五千圓の區債を起さんとし明治二十三年十月内務大藏兩大臣の許可を得更に村上佐藤兩氏代表に■■て曽屋水道區を會主とする無盡養老會を組織して寄附財源とし水道料と相俟つて區債の償還に充て後遂に所期の目的を達成せりこれ即ち我國最初の簡易陶管水道にして實に曽屋上水道の濫觴たり爾来三十餘年施設年を逐ふて擴張す然るに大正十二年九月一日俄然關東の大震火災に遭遇し便益を誇る簡易水道の設備は一朝にして全部破壊せられたり翌十三年一月十一日町會區會の聯合協議會を開催鐵管水道建設を即決し町長佐野義職氏の指名に依り委員として町議石田佐𠮷同梶山久次郎區議山岸龜太郎同榎本辰藏同髙橋莨藏の五氏を擧げ竹下久太氏を專任技術員に嘱託す諸氏震災焦土の中に在りて自家の復𦾔を度外に置きひたすらその規格に盡瘁す同年十二月二十五日神奈川縣知事より上水道復𦾔工事の認可を得てより行事は着着として進捗す鐵管は大阪栗本鐵工所に仰ぎ敷設の工事は大阪市須賀豊次郎に給水の工事は日本水道衛生工事株式會社に夫々請負はしむ取水口配水池喞筒所等に至るまで孰れも精細なる注意の下に工事を進む大正十四年十一月十九日其の一段落を告げ同月二十二日落成祝賀の式典を擧行す後必要に應じ工を添へて現在に至る鐵管の延長六千五百九十二間專用專壹千二十九特別共用栓八十七共用栓六百四十三消火栓九十四取水栓壹百六十三を數ふ大正十二年九月一日より昭和十年五月三十一日に至る事業費實に四十壹萬八千八百三十圓三錢以て今日の完壁を見る今や濠々なる淨水は到る所に得られた日常の便益はいふも更なり衛生上防火上一點の不安あるなく町将來の福祉亦甚だ大なりと謂ふべし■するに人生一日も缺くべからざるは飲料水を以て第一とすこれを得るの途亦多種多様なるべきも水道施設は其の最たるものなり蓋し我が秦野町曽屋上水道は其の水質に於て将又簡易にして有効なる點に於て我国水道史上稀に見る所而して洵に郷土の誇となすに足るこれが見學視察の爲全國各地から集ってるもの年々其の數を知らす茲に其の浴益の大要を誌し併せて功勞著しき諸氏の芳名を縷して永く不朽に傅へんとす
昭和十一年十一月
秦野町長石井兵助撰文
奉堂 桒原宣太郎書
陶管水道
建設㓛労者
- 所長
- 奥津弥平
- 町長
- 村上長兵𫟘
- 出願代理者
- 佐藤政𠮷
- 水道工事委員工事担当人
- 梶山良助
- 仝
- 川口直次郎
建設當時ノ水道工事委員
(芳名略)
鉄管水道建設
當時区會議員(芳名略)
鉄管水道建設委員
(芳名略)
- 石工
- 天野菊次郎
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