原町田 商店街 発祥の地
はらまちだしょうてんがいはっしょうのち
横浜線・小田急線 町田駅から300m東。町田市図書館の隣にグルメシティ町田店(ダイソー)がある。 その北側の商工会議所(原町田3丁目3-22)前に,土蔵の妻面をかたどったようなユニークな形の石碑が建っている。
この地は,直交するJRと小田急の町田駅からいずれも数分の距離にあり,道幅は狭いが賑やかな商店街となっている。元々は町田街道の旧道で,幕末から明治時代にかけて日本の主要な輸出品目である生糸を集散地である八王子から横浜港に運ぶ街道として繁栄した。最近は“
1908(明治41)年に横浜鉄道 原町田駅が開通し,さらに1927(昭和2)年に小田急電鉄 新原町田駅が開通すると, 駅前商店街として大きく発展し 現在の賑わいとなった。JR横浜線は1980年(昭和55年)に、小田急線は1976年(昭和51年)にそれぞれ「町田駅」と改称した。
写真
碑文
原町田商店街発祥の地
「二・六の市」の碑
原町田商店街の発祥は,もとは一村であった町田
郷か ら原町田村が独立したのち, 天正一五年(一五八七)に,それまでの市 をわけて,「二の市」が原町田,「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれて います。本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが,原町田の“市”は炭・薪 ・蚕糸 ・畑作物のほか,衣料や農具など多くの物産を取り扱い,文政・天保年間頃(一八一八~一八四三)には 「二・六の市」となって,月に六回も開かれるようになりました。 この「二・六の市」こそ,今日の原町田商店街発展の礎 を築いたといえるのです。
幕末に横浜が開港すると,原町田は繭 や生糸 を運ぶ“絹の道”の中継地として,各地から生糸商人が集まり,“市”の規模も大きくなっています。
“市”が開かれた場所は,川田横丁や塩屋横丁あたりから勝楽寺門前までで,道の両側の家の軒先に“マゲ”と呼ばれる長い屋根が張られ,それを区切って市店 が並びました。
明治四一年(一九〇八)に横浜線が開通し,交通の便がよくなる と,“市”の日以外にも人びとが集まるようになり,次第に商業の街としての形が整うようになり ました。
大正一四年(一九二五)には,古着や古道具類を扱う市店が今の仲見世商店街付近に“ボロ市”と して独立し,有名になりましたが,昭和に入ると不況や戦争の影響を受けて,物資不足から出店数も減り,昭和一九年(一九四四) 六月,三六〇年程続いた“市” も,ついに幕を閉しています。しかし,原町田は戦後再び商業地としてよみがえり,飛躍的な 成長を遂げて今日に至っている のです。一九八五年十月
町田市史編さん室編修