宝蔵院流 鎌槍 発祥之地
ほうぞういんりゅうかまやりはっしょうのち
近鉄奈良線 奈良駅から 東に800m。奈良公園の中にある奈良国立博物館は 本館と新館に分れているが, 本館の西入口に向かって左側の空間に茶色い横長の石碑が建っている。
室町時代の末期,興福寺の僧であった宝蔵院覚禅房は,槍の達人・大膳大夫盛忠から槍術の基礎を学び, 十文字槍を工夫して宝蔵院流槍術を始めた。その後,宝蔵院流は 高弟であった中村直政に,さらに高田又兵衛吉次に承継された。
江戸時代に入って その槍法は江戸の道場で広められ 世に知られるようになり, 幕末には 多くの宝蔵院流の師範が輩出した。
明治時代以降 槍術の多くの流派は途絶え, 現在伝えられているのは“宝蔵院流高田派”の流れを汲むもののみとなっている。
写真
碑文
興福寺宝蔵院跡
宝蔵院流鎌槍発祥之地宝蔵院流槍術由来
宝蔵院流槍術の流祖宝蔵院覚禅房胤栄(~1607)は南都興福寺の学侶でありましたが,武芸を好み,柳生但馬守宗厳と共に上泉伊勢守から刀術を学び,一方,槍の修練にも努め,ついに猿沢池に浮かぶ三日月を突き十文字鎌槍を工夫し,宝蔵院流槍術を創めるに至ったと伝えられています。
宝蔵院流の槍は,通常の素槍に対し鎌槍と称する十文字形の穂先に特徴があります。この鎌槍を活かして立体的,平面的に使用し,画期的な武器として「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」との歌が伝えられ,江戸時代を通して全国を風靡するに至りました。
宝蔵院は興福寺子院の一つで,中世末・近世初頭以来この地にありましたが,江戸幕末に退転し,さらに明治初年の廃仏毀釈の際取壊され,その跡地は帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)構内に組込まれました。現在は,宝蔵院の井戸枠と伝えられる六角形の石組が敷地内に残されているほか,胤栄が庭の大石に武神摩利支天を祀り槍術成就を祈請した「摩利支天石」は興福寺三重塔前に遷座し安置されています。平成14年12月吉日
奈良宝蔵院流槍術保存会