日本 女医 第一号 荻野吟子 開業の地 (瀬棚)

にっぽんじょいだいいちごうおぎのぎんこかいぎょうのち

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撮影:
どなたか見てきてください!

函館から北西に130km、札幌からなら南西に200km以上。日本海に面する渡島半島西部、国道229号の通カチであるせたな町の瀬棚児童会館(久遠郡せたな町瀬棚区本町389)駐車場入口に細長い記念碑がある。

ちょっとコレクションするか迷うところではあるが、女医第一号開業地ということで念のため入れておく。

荻野吟子は活躍し晩年は東京向島に開業していたということで、そちらには案内標識が教育委員会によって設置されている

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碑文

日本女医第一号 荻野吟子 開業の地

参考までに、東京の路傍に立つ案内標識の内容を記す

荻野医院跡 ──日本女医第一号 荻野吟子開業の地──

所在地 墨田区向島1丁目8番

荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に産まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治12年(1879)、市立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同38年3月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子35歳。早くもその都市の5月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。

しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す14歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治27年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めて開業したのは志方と死別して間もない明治41年12月、58歳の時でした。

晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正2年(1913)6月23日、62歳で亡くなりました。

平成24年3月

墨田区教育委員会

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