甲斐 武田氏 発祥の地

かいたけだしはっしょうのち

ひたちなか海浜鉄道湊線 日工前にっこうまえ駅から 南西に約1km。陸上自衛隊勝田駐屯地の南西隅から常磐線の線路を挟んで向こう側に湫尾ぬまお神社。 その神社の参道入口に石碑と説明板が建っている。

武田氏といえば甲斐国かいのくにという印象があるのだが,はるか離れたひたちなか市(旧・勝田市)が 甲斐武田氏の発祥地とされる経緯は,碑文に詳しく書かれている。しかし “武田信玄の祖先が常陸国の出でそこの地名「武田」をとって姓とした”というのはやや意外の感がある。

武田氏の常陸国発祥説は1960年代に発表され,現在はこちらの方が定説となっているという。湫尾神社の裏側には源義清(武田吉清)が居を構えた“武田氏館”がある。

山梨県に行くと,“甲斐武田氏は武田信義が武田庄(現・韮崎市)に入り 武田姓を名乗ったのが始まりであり,韮崎が発祥の地”とされているようである。韮崎市には平安末期に信義が居を構え武田氏を名乗ったという“武田信義館跡”がある。

写真

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碑文

甲斐武田氏発祥の地

平成二年二月

勝田市教育委員会

名将信玄を出した甲斐武田氏発祥の地

 みなもと頼義のよりよしの長子八幡太郎義家の弟新羅しんら三郎義光は,三年のえき(1083~ 1087)に際し兄義家軍への参加や,常陸介ひたちのすけに任ぜられて東国常陸への赴任を通して,早くから在地勢力と提携し,常陸大掾たいじょう平氏と縁戚関係を結んで,常陸進出の野望を着々と実現していった。義光には,義業よしなり実光さねみつ義清よしきよ盛義もりよし親義ちかよしらの数子があったが,まず,長子義業を,常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とした。
 一方,三男の義清を,常陸国吉田郡武田郷(野田市武田)に配して勢力の扶 植をはかった。ここが甲斐武田発祥の地である。
 義清は刑部ぎょうぶ三郎と称し,武田郷の地名をとって初めて武田氏を名乗り武田冠者と呼ばれた。 この義清が甲斐武田氏の始祖となったのである。
 「武田系図」によると,義清は上野介こうづけのすけ源兼宗の女を妻とし清光をもうけてい る。『長秋記』によれば,大治五年(1130)十二月三十日の条に「常陸国司,住人清光濫行らんこうの事などを申すなり,子細目録に見ゆ」と記されている。 十二世紀初めの武田郷周辺の地は在地豪族の間で互いに勢力を張り合っていた が勢力拡張をあせる義清,清光父子にゆき過ぎの行為があった。
 そのため吉田郡地方に隠然いんぜんたる勢力をもつ常陸大掾の族吉田清幹きよもとらに疎外され「清光濫行」として告発された。その結果,義清,清光父子は告発された直 後,甲斐国市河荘いちかわのしょう配流はいるとなった。
 義清の曾祖父頼信,祖父頼義,父義光と三代にわたって甲斐守に任ぜられ, 清和源氏と甲斐とは密接な関係にあった父祖ゆかりの地に土着し,新天地を開 いて甲斐源氏発展の基盤を築いた。
 名将武田信玄は義清から十八代目にあたる。

武田氏略系図 (略)

勝田市・勝田市教育委員会

地図

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ひたちなか市武田 付近 [ストリートビュー]