風間氏 発祥の地
かざましはっしょうのち
北陸新幹線・信越本線・長野電鉄・しなの鉄道 北しなの線 長野駅から南東に3.5km、風間神社(長野市風間781-1)の向かいあたりに石碑が建つ。令和4年(2022) 末に風間氏の会によって建碑、令和5年(2023) 4月に除幕式が催された。
写真
碑文
風間氏発祥の地
風間神社宮司 斎藤英之題
記念碑由来
風間氏は、信濃国水内郡の式内風間神社(長野市大字風間)より起こる諏訪氏流である。諏訪上社の矢島家直二男忠直が式内風間神社の神領の(794~1192)荘官として来て風間氏を名乗ったのが始まりである。平安時代末期の1140年頃と推定される。平安時代末期の風間橘五の時代は既に越後国東頸城群に進出し、直峰城を築城し勢力を広げた。
鎌倉時代 風間信濃守信昭は幕府の御家人で幕府に出仕、信昭公は南北朝時代(1336~1392)新田一族と共に南朝方で活躍、延元3年7月(1338)信濃国守に任命された。信昭公の死後、足利義詮は信昭公の旧領を没収、風間氏は信濃旧領と出羽の国 風間に国替となる。
この後風間氏は水内郡風間郷の領主として風間宮内少輔、風間備前守と続き、風間安芸守光貞は寛正2年(1461)諏訪上社の例祭五月会の頭役、応仁2年(1468)御射山祭の頭役を務めた。天正9年(1581)の領主に風間太夫式部少輔の名がある。戦国時代末期は信濃国の大半は武田信玄の侵攻で占有され、信濃を終われた小笠原・村上等領主は越後の上杉謙信の助けを求める。このため風間郷を含む善光寺平に天文22年(1553)第一回川中島合戦が起こる。永禄4年(1561)第四回合戦の直前直江大和守実綱の越後直江領与板山沢に移住した風間郷の民がいる(山沢の風間氏)。天正10年(1582)織田徳川連合軍の武田攻めで信濃は占領され風間氏は鬼無里、中条、三水、古間、塩崎他や他国に分散、徳川家臣・小笠原家臣・上杉家臣となった。
時代が流れて、ここに長野、新潟、山梨、関東地区の風間氏が風間神社に集うようになった。風間神社関係者の同意を得ながら平成20年(2008)「風間氏の会」が発足した。また、新聞社新潟日報が平成22年(2010)11月3日に特集記事を書き、「風間一族の歴史を学ぼう」として、一族の子孫を講演会に招いたことが大きかった。令和4年12月吉日 風間氏の会 建之
原文ママ
風間氏の会
(芳名略)
長野県長野市
白馬村
山梨県笛吹市
甲府市
神奈川県横浜市
石川県金沢市
新潟県長岡市
村上市
十日町市
新潟市
上越市
妙高市
小千谷市
柏崎市
縁起式内 風間神社由緒
古い時代の裾花川は、流域面積が少ないため暴れ川と呼ばれるほど氾濫が多く、人々を悩ませていました。村人たちは裾花川の流れを治め、豊かな恵みを願い、お社を祀られたといわれています。平安時代の延喜式神明帳には、水内郡の一座として記載されます。
鎌倉時代、諏訪氏が御内人となったことから、北条得宗家との絆は一段と強くなり、全国に諏訪神覚を拡大していきます。当時の諏訪氏は自分の支配する土地の地名を《名字》として名乗りますので、諏訪一族の矢崎忠直は、風間郷に来たので字(通称)風間神荘司を名乗り「風間神社」から「諏訪大明神」に改めたと伝えられています。文明五年、内訌により風間氏は途絶えます。
江戸時代になると、諸社禰宜神主法度により、宮﨑若狭守が京都の吉田家から神道裁許状を受け、「風間大明神」の社号を許されました。境内には伊勢の関係が強い伊勢宮、猿田彦社、天牟羅雲社が祀られています。伊勢国の宮﨑神主が、「諏訪大明神」から「風間大明神」へ改号します。
文政五年、京都吉田家の宗源宣旨で神階を発行し、「風間大明神」から「風間神社」に改号します。混乱の明治期には、神仏分離令や社寺領上知令が発せられ、更に太平洋戦争の苦難を乗り越えて、現在の地にお祀りされております。風間神社神主末裔 風間 孝康
(略)