近代 硝子 工業 発祥之地
きんだいがらすこうぎょうはっしょうのち
品川駅と大崎駅の間は 東海道線・東海道新幹線・横須賀線・山手線・貨物線 などが複雑に交差している。山手通りが 東から東海道線と交差して, 迂回しながら 新幹線と交差するまでの間, 三共の発送センター前に 赤茶色の石碑と, 品川区が建てた木製の説明板などが建っている。
この地域は 東海道の北品川宿として 早くから開けていた。
発祥碑のある場所は かつて東海寺の境内で, ここに明治6年(1873) 日本最初のガラス工場 である「興業社」が創設された。その後 官営の「品川硝子製造所」となったが, 紆余曲折を経た後 結局明治25年(1892) に解散となった。敷地の多くと設備は 製薬会社「三共」に引き継がれ, また 技術者などは 「品川白煉瓦」「日本光学(ニコン)」「東京電気(東芝)」などに引き継がれて行った。 品川硝子のレンガ造りの工場建屋の一部は, 現在 愛知県の明治村に移築され保存されている。
またこの付近には 近くを流れる目黒川の水運を利用して, 明治期に さまざまな工場が建てられ. 後の京浜工業地帯のルーツといわれる。おもな企業として「日本ペイント」「明治護謨」 「東洋酸素」「星製薬」「明電舎」「荏原製作所」「日本精工」「大崎電気」 「森永製菓」「藤倉」「三菱鉛筆」などが挙げられる。
追記 2017.8
三共配送所は廃止となり、変電設備設置工事をしていた
写真
碑文
近代硝子工業發祥之地
此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三条実美ノ家令丹羽正庸等ノ発起ニヨリ我国ニ始メテ英国ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ広大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民営ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ已ムナキニ至ッタ
其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開発ニ貢献シ本邦硝子興業今日ノ基礎原動力トナリ我国産業ノ興隆ニ寄与スル所頗ル大ナルモノガアッタ
吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ図ッタガ會々此ノ挙ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ッテ今茲ニ由緒アル発祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ伝フルヲ得タノデアル昭和四十年十二月
諸橋轍次 撰
石井玉泉 書
本所石勝 刻
背面の寄付者名は省略
品川区指定史蹟
官営品川硝子製作所跡
所在 北品川4丁目11番5号 三共株式会社
指定 昭和53年11月22日 (第8号)日本における近代硝子工業発展のもとになったのは, 明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社である。
興業社は, 明治9年(1876)に工部省に買収されて 官営品川硝子製造所となり, 全国のガラス工業の発展に貢献した。明治18年(1885)には 西村勝三らに払い下げられて 民間経営となったが, 経営不振のため, 明治25年(1892)に解散した。
昭和36年(1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが, 煉瓦造りの工場の一部は, 明治初期の貴重な建築物として, 愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。平成6年3月31日
品川区教育委員会