日本の工学 発祥の地
にっぽんのこうがくはっしょうのち
霞が関官庁街にあった会計検査院の横に、レンガ積みの門柱のような「工部大学校阯碑」があった。しかし、一帯の再開発により官庁等が大移動、この碑も一時的に東京大学で保管された後、平成22年(2010) に区画南側の外堀通り沿いに改めて設置された。
その横に千代田区教育委員会が建てた説明板があり、これが工部大学校跡を示す記念碑である。説明にあるように、工部大学校は現在の東京大学工学部の前身にあたる教育機関である。
この碑は、工部大学校出身者によって関東大震災の際のガレキなどを用いて建てたものと言われ、火事場に焼け残った門柱のような印象を与える。
- →旧・日本の工学発祥の地
さぞ賑やかな場所になったことだろうと訪ねてみたわけですが、官庁がお休みの日はその他も全休ということで、静かな撮影日よりでした。
【リンク】霞ヶ関コモンゲート
写真
碑文
千代田区指定有形文化財(歴史資料)
工部大学校阯碑
霞ヶ関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代の虎門内延岡藩邸を中心とした地域は、日本の工学発祥の地です。明治六年(一八七三)工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、同十年(一八七七)には工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科がイギリスをはじめとする諸外国から招聘された外国人教師によって教授されていました。しかし同校は明治十九年(一八八六)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。現在の東京大学工学部の前身です。工部大学校の移転後、同校々地及び建物は、帝室博物館、東京女学館などが使用しました。しかし大正十二年(一九二三)関東大震災で工部大学校以来使用されてきた建物も倒壊してしまいました。その後、この土地には会計検査院などの建物が建設されたため、当時の面影がなくなってしまいました。そこで工部大学校出身者たちは、かつてこの地に同大学校があったことを記念して、昭和十四年(一九三九)「工部大学校阯碑」を建設しました。裏面碑文によれば、本碑の素材には関東大震災の際に倒壊した建造物の煉瓦などが用いられています。「工部大学校阯碑」は、千代田区内において日本最初の工業技術教育が設置された場所を示しつつ、その歴史を後生に語りかけてくれます。さらに、震災で倒壊した建造物の廃材を素材としていることで、震災によって大きな打撃を受けた千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。
平成六年三月
千代田区教育委員会
(平成二十二年十月補修)碑文
此地ハ明治天皇ノ聖蹟ニシテ又実ニ我国工学発祥ノ処ト為ス初メ明治四年工部省工学寮ヲ此ニ置ク同六年寮内ニ工学校ヲ開テ同十年改メテ工部大学校ト称シ工作局ノ所管ト為ス翌十一年新築校舎成ルヲ以テ七月十五日明治天皇親臨シテ開校ノ典ヲ挙ゲ給フ皇族大臣参議以下参列シ其義極メテ荘厳ナリ天皇勅語ヲ賜フ中ニ百工ヲ勤ムルハ経世ノ要ニシテ時務ノ急ナリ自今此校ニ従学スル者黽勉シテ以テ利用厚生ノ源ヲ開カンコトヲ望ムノ語アリ次ニ校舎ノ鍵鑰ヲ工部省御用取扱参議伊藤博文ニ賜ヒ博文之ヲ拝受シテ工作局長大島圭介ニ授ケ又奉答ノ辞ヲ奏ス式挙リテ天皇各教場ヲ巡覧シ学生ノ進講ヲ聴キ理科学ノ実験ヲ視給ヒテ後還幸アラセラル恰モ此地ハ麹町区三年町ニ在リ旧延岡藩邸ノ遺阯ニシテ面積約一万二千坪本校舎ハルネイサンス式二階建テニシテ之ヲ中心トシテ博物館実験室工作場生徒館等前方及ビ左右ニ耕地セラレ堂々トシテ虎之門濠頭ニ聳ユ総テ煉瓦造ニシテ宏壮偉観ヲ極ム是ニ於テ土木機械電信造家化学鉱山冶金ノ諸学科備ハリ尋イテ造船学科加ヘ俊才輩出ス同十八年工部省廃セラレタルヲ以テ文部省ノ所管トナリ翌十九年帝国大学令ノ発布セラルルニ及ビ工科大学トナリ綜合大学ノ一部ヲ為ス後本郷区ノ新校舎成ルニ及ビ之ニ移リ虎之門ノ土地諸建造物ハ挙ゲテ宮内省ノ所管ニ帰シ或ハ帝室博物館ノ倉庫トナリ或ハ維新史料編纂事務局東京女学館等ニ使用セシメラル大正十二年関東地方大震災ノ起ルヤ諸建造物皆甚シク害ヲ被リ覆用フ可カラザルニ到ル既ニシテ帝都復興ノ事業始マルニ及ビ旧地ヲ濠清シテ文部省会計検査院華族会館東京倶楽部東亜文化学院等ノ諸建造物新タニ此ニ経営セラル而シテ逐ニ一物ノ旧容ヲ留ムルモノナシ我等工部大学校出身者ハ頗ル懐古ノ情ニ堪エサルモノアリ及チ相謀リテ小記念塔ヲ作リ之ニ石版ヲ嵌入シテ此一大学園ノ由来ト処在トヲ記ス庶幾ハ聖蹟ト史蹟トヲ永ク後世ニ伝フルヲ得ン工学博士大隈喜邦夙ニ思ヲ之ニ致シ辛苦シテ当時ノ遺物ナル煉瓦石材鋼材等ヲ拾集シ以テ此塔ヲ作成ス
昭和十四年四月
工部大学校出身虎之門会作之
虎之門会員工学博士曽根達蔵撰