国産 マッチ 発祥の地
こくさんまっちはっしょうのち
総武線 錦糸町駅から600m西。京葉道路に面して 都立両国高校(墨田区江東橋1-7-14)がある。 この学校の フェンスの内側に, 「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 黒御影石の 記念碑が建っている。碑には 当時の新燧社のマッチ箱ラベルも描かれている。
石川県金沢出身の 清水誠は, フランス留学から帰国後 明治9年(1876) に, この地 本所柳原に「新燧社」を設立, 本格的にマッチの製造を始めた。2年後には 早くも 我が国始めての輸出が行われ, その後 明治から昭和初期にかけて マッチの輸出は黄金時代を迎え, 太平洋戦争前まで続いた。
戦後は 広告マッチが流行し 生産量が拡大していったが, 昭和50年代(1975頃以降)より 使い捨てライターが急速に普及し, マッチの生産量も急減した。
なお, この地から 1.5kmほど北東の「亀戸天神社」に 「国産マッチの創始者 清水誠の頌」 という石碑があり, 国産マッチの歴史を 読み取ることができる。
写真
碑文
国産マッチ発祥の地
国産マッチの
創始者 清水誠の頌岸 信人 書
人類は 原始以来火を自由に使うことによって 今日の文明 を築いてきた 日本の近代文明もまた 西欧からマッチの製法 を輸入し これを改良工夫した先人の努力によって 飛躍的に 発展したのである その創始の時が今から丁度百年前であり その創始者が清水誠氏である 清水氏は弘化二年(一八四五年) 金沢で生まれ 明治三年幕命を受けてフランスに留学しパリ工 芸大学に学んだ 専攻は造船学であったが 明治七年たまたま在 仏中の宮内次官吉井友美氏の勧めによって マッチの製造を決 意して 帰朝した 翌八年(一八七五年)四月には 本務の造 船技師のかたわら 東京三田の仮工場で 早くもマッチの製造 に着手した 明治九年九月本所柳原町に工場を新設して新燧社 を興し 同十二月には 官職をやめて その経営に没頭した 翌十年九月には 初めて国産マッチを上海に輸出し 好評を博 した 明治十一年七月再びフランスに渡り ドイツ スウェー デンのマッチ事業を視察して帰り 以来ますますその改良に苦 心し増産につとめた その後打ち続く不 況に見舞われ 逐に二十一年には業界か ら引退して郷里金沢に帰った しかし その後もなおマッチ製造機の改良に情熱 を燃やし 二十九年新鋭機の特許をとり 翌二十年大阪に出て その製造に従事し た 明治三十二年(一八九九年)二月八日病をえて没した 時に年五十四才であ る 大正四年政府はその功績を賞して従五位を遺贈した なお没後間もなく当亀 戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てら れたが今次の戦災によって破損したまま になっていた 今年あたかも国産マッチ 創始百年に当たり 業界の有志によって 新しく再建されることになった ここにそ の由来を誌し先人の功をたたえ 一文を 草して頌辞とする
昭和五十年五月十二日
文学博士
内野 吾郎 撰