源姓 足利氏 発祥之地
みなもとせいあしかがしはっしょうのち
東武伊勢崎線
足利氏は 清和天皇から興った河内源氏の流れを汲み,室町時代には足利尊氏が足利幕府を興した一族。これとは別に,平将門を倒した藤原秀郷の子孫の“足利氏”があって,これと区別するため 前者は「源姓足利氏」,後者は「藤原姓足利氏」(あるいは「藤姓足利氏」)と呼ばれる。
源姓足利氏とこの地足利市(下野国足利荘)との関わりは,平安時代に源義家(=八幡太郎義家)の三男である 源義国がこの地を領有したことに始まり,その次男・源義康の代で足利氏を称した。義康が居館(足利氏館)を構えた場所は,現在
写真
碑文
源姓足利氏発祥之地
八幡太郎源義家は十一世紀後半の武将として夙に名高い。 義家は下野守,陸奥守を歴任しながら,東国を足場にして, 前九年・後三年の役という奥羽の二つの内乱を朝廷の命によるとはいえ, ほとんど独力で鎮定させている。まさに偉業というべきであろう。
この義家を父に中宮亮藤原有綱の女を母として生まれたのが源義国である。
京都で生まれ育った義国は久安六年(一一五〇)のある日, 宮中に参内の途中,偶然にも当時右大将(のちに右大臣)藤原実能の行列に出会い争いをおこし, 狼藉をしたということで,実能の従者らによって馬からうち落されてしまった。 これに怒った義国の郎徒が実能邸に押しかけ,邸を焼き払ってしまった。 この事件で義国は勅勘をこうむり,下野国足利の別業(私領)にひきこもってしまった。 この別業は父の義家から伝領された土地だったのであろう。
この別業ですごすこと数年,仁平四年(一一五四), 年老いて死期の近いのを悟った義家は出家し荒加賀入道と号し, 翌年に没した。義国の足利在留はわずかな年月であったが, これが足利氏・仁田氏の成立の発端となったのである。
(以上,「近代足利市史」より抄出,一部加除)
この義国が下ってきた足利別業の地が一体,どこなのか。 古来,諸方面から論議されてきたが,下野国一社八幡宮付近を宛てる説があり, かなりの可能性が高いといわれている。
時は流れ,義国の子の義康は足利氏の先祖として後白河天皇方に味方して活躍をとげ 源姓足利氏発展に大きく貢献した。 その子義兼は鎌倉御家人として将軍源頼朝を補佐して鎌倉幕府誕生に尽力した。
そして,この義兼の後胤に尊氏が輩出し室町幕府を築きあげ 武家政治を推進したことは高く評価されなければならない。
茲に源姓足利氏の発祥地である下野国一社八幡宮の境内に記念碑を造立して これを後世に永く伝えんとする次第である。平成二十年十一月二十日
下野国一社八幡宮 総代会