日本の 赤十字活動 発祥の地
にっぽんのせきじゅうじかつどうはっしょうのち
熊本電鉄 北熊本駅の南東500mの地に, 真言宗 拝聖院(熊本市北区室園町12-53)がある。寺の入り口に「日本の赤十字活動発祥の地」と書かれた札が, 寺の境内には「細川藩医師団の赤十字活動について」という説明板が建っている。
熊本県内には 赤十字関連の“発祥の地”碑がいくつか見られるが, ここはその一つである。
拝聖院境内には, 発祥碑とは別に「西南の役 細川藩医師結集の地」という石碑も建っている。
写真
碑文
日本の赤十字活動発祥の地
細川藩医師団(鳩野宗巴外七名)が 本部として西南の役の負傷者官軍薩軍をとわず治療にあたり, 日本赤十字活動発祥の地の原点と言える
真言宗立田山
拝聖院
細川藩医師団の赤十字活動について
明治元年(1868年)維新戦争の時, 明治政府は横浜に英国の軍医ウイリアム・ ウイルスを院長に軍事病院を設けて 戦傷者の洋式治療に当てたが 細川藩は 鳩野宗巴を5ヶ月間, 同所に派遣して治療と修行に当らせた。
此の時に西洋医学と共に, 当時ヨーロッパで設立された国際赤十字(1863年 スイスに設立)の敵, 味方や身分, 貧富等も一切差別しない 医師としての博愛 精神も欧米の医師達から学んだと思われる。
明治10年, 西南戦争の時は 鳩野宗巴は妙体寺町に医院活人堂, 病室養生軒, 医学塾亦楽舎を構えて有名であったが, 2月19日, 熊本城天守閣の炎上の時に 上林, 上通, 坪井と延焼, 鳩野家も全焼。
同家は明治維新の折の廃仏毀釈騒ぎで廃庵になっていた 当拝聖庵跡に避難した。 2月23日, 池部吉十郎から攻城戦での戦傷者の治療を依頼された宗巴は, 官軍, 薩軍の別なく治療することを条件に承諾した。
藩医 河喜多宗磧, 黄 玄風, 原田早春, 村上又五郎, 松岡独醒庵, 狩野庄馬, 村井周吉らと8名で早速治療を開始。戦傷者の増加で病室が手狭になると 近くの梅木小学校, 亀井の光照寺, 民家41戸を借上げ, 更に分院として白山 神社社務所と周辺民家30戸を借上げて, 同所には桑島見龍, 松田喜福, 池邊 健寿, 林 強の4医師を置いて治療した。然も皆, 自費で行った 崇高な医療活 動である。又, 同地の婦人達は競って看護に協力, 我が国で始めての戦陣での 組織的な女性の看護活動が行われた。
4月15日, 薩軍が御船, 矢部と転戦すると, 熊本隊, 協同隊, 龍口隊も全員が 行を倶にして人吉, 鹿児島, 宮崎の各地で戦ったが 松岡独醒庵, 狩野庄馬 村井同吉は陣中医として同行, 8月17日 延岡の長井村で党薩諸隊の全軍 解隊して降るまで, 傷病兵の治療看護を続けた。
これは, 日本赤十字活動のはじまりといわれる, 佐野常民, 大給 恒が官の裁可を得て博愛社を設立し治療を開始した 5月27日より94日も前のことであった。平成11年10月吉日
熊本県医師会 柏木 明
西南の役
細川藩医師 結集の地明治十年二月二十三日,城下から当拝聖庵跡に疎開していた細川藩外科医師 鳩野宗巴を 薩軍に呼応して決起した熊本隊の隊長,池辺吉十郎が訪れて戦傷者の治療を依頼,宗巴は官薩の別なく治療することを条件と承諾。
左記の藩医を集めて早速治療を開始した所である鳩野宗巴 河喜多宗磧 黄 玄風 原田早春 村上又五郎 松岡独醒庵 狩野庄馬 村井同吉
狩野庄馬, 松岡独醒庵, 村井同吉等は薩軍に熊本隊と共に軍医として八月熊本隊最後の戦いとなった, 延岡の戦いまで同行して, 最後まで傷病者を治療した
尚,鳩野門下の藩医, 松本勝太は中澤大四郎の竜口隊に半隊長として参加, 日向にて戦死している。平成十年十二月吉日 建之
熊本三州会 会長 白男川 史郎
三幸建設 社長 四元義隆
鹿児島 西郷隆文
〃 瀬脇潔子