日本最初の 麦酒工場
にっぽんさいしょのびーるこうじょう
山手町の元町公園正面入口前から南に下ると、北方小学校の横を経て、「キリン公園」に至る。この小公園に「麒麟麦酒開源記念碑」と刻まれた大型の碑が建っているが、隅にある小ぶりな石碑は見逃しやすい。
明治5年(1872) に、外国人居留者向けのブルワリーがこの地に誕生。それ以前にもブルワリーはいくつかあったものの、できては閉鎖を繰り返していたが、W.コープランドは継続的にビールを製造、産業として長く続けた。
当地は関東大震災でビール工場が損壊し、また拡張性がないことから、鶴見区生麦(現在のキリンビール横浜工場)に移転し、跡地はキリン公園となっている。
天保5年(1834) 1月10日ノルウェイで生まれたヨハン・マルティニウス・トーレセンは、後にアメリカに渡りウィリアム・コープランドを名乗り、元冶元年(1864) に来日。牧場やビールなどの新事業を展開、経営難によりブルワリーを売却後は再婚した日本人の妻と日本を離れてグアテマラに渡るも、事業がうまくまわらず、またかねてからの病の悪化で明治35年(1902) 1月に再来日、2月11日に横浜で歿する。山手の外人墓地に埋葬されている。
キリン公園内には、麒麟麦酒開源記念碑も建つ。
写真
碑文
文化遺蹟
日本最初の麦酒工場横浜市長 半井清
昭和三十七年二月十一日W.コープランド氏の命日に建てる
横浜ペンクラブ