信州 忽布 発祥之地

しんしゅうほっぷはっしょうのち

中野松川駅から北に500m、一本木公園(中野市一本木495-6)に入ってすぐ右の植え込みの碑林に、大きな石碑がそびえる。並びには、鈴木松之助碑と山本為三郎碑がありどれも立派だ。発祥碑と山本碑はホップの蔓のレリーフもあるこだわりようだ。

高水忽布農業協同組合が平成10年(1998) に解散。組合敷地処分とともに石碑は一本木公園内の一角に移転した。移転と言っても、正面に据え付けられた「発祥の地」銘板だけと思われ、石碑本体は解散時の記念に造られたものとみられる。

なお、当地 一本松公園は、元はアサヒビールのホップ乾燥場だった。

参考

写真

  • 信州忽布発祥之地
  • 信州忽布発祥之地 銘板
  • 信州忽布発祥之地
  • 信州忽布発祥之地 碑陰
  • 鈴木松之助碑
  • 鈴木松之助碑 碑文
  • 山本為三郎碑
  • 山本為三郎碑 碑文
  • 山本為三郎碑 背面
  • 山本為三郎碑
  • 山本為三郎碑

碑文

信州忽布
発祥之地

長野県知事 西沢権一郎書

大正七年(一九一八)信州各地にホップ生産組合が誕生翌八年からホップ栽培が始まったが大きく成長発展したのは当地の高水ホップ組合である それはこの地域が高燥冷涼でホップ栽培の適地だったことと光覚者に恵まれさらに生産農家がいく多の困難を克服して道を切り開いた賜である
昭和のはじめホップは養蚕と比べて価格が安定していたことまた栽培技術や品質の改良がすすみ農家の生産意欲が高まった昭和十二年(一九三七)日中戦争を機にホップ自給化計画がたてられ桑畑がつぎつぎとホップ畑となりホップは当地の主要産業に産業に成長した
またビール会社が倉庫乾燥場などの施設を中の町に建設したので県内のホップが集まり当地はわが国ホップ産業の中心地となった
太平洋戦争末期戦況が悪化してホップ栽培は圧迫されたが戦後ビール需要が伸びて昭和三〇年代には全国の約三割を当地で当地で生産した しかし昭和四〇年代になると国内外の経済情勢が変動して減反がすすみホップ畑はわずかな面積を残すだけとなった
ホップはかつては当地の特産物として地域の発展に大いに貢献した産業である

撰文 徳永泰男
揮毫 太田野雲

歴代組合長

初代~七代(芳名略)

平成十年七月

高水忽布農業協同組合

八十周年実行委員会

委員長(以下芳名略)

協賛

アサヒビール株式会社
サッポロビール株式会社

表碑は五十周年作成

信州忽布の由来

大正の初期大日本麦酒株式會社は忽布の國内自給を企て本縣に其栽培を開始した併し忍ち障礙百出し其成功し甚だ困難となった 然るに此時鈴木松之助翁を長とする高水組合𛂛みは飽迠も会社の企圖協力し百折不撓万難を克服し𛁲遂に此難業を成就せしめた 斯くし𛁲信州忽布の始祖𛁻𛂁った鈴木組合長𛁻昭和十八年十月廿三日齡七十二にして易簀したが後組合は能く翁の遺業をぐぎ倍し𛁲斯業の發展に務め日進月歩遂に今日の盛況を見るに至らしめた 今日本縣が忽布の大量生産地として卋界的に認めらるゝに至ったのも偏に組合多年の努力に依るものである 爰に斯業𛂛隆昌を祝福して本碑を此地に建立し其光輝ある成功の歴史を永く後丗に傳える

昭和廿八年十月廿三日

日本麦酒株式會社
朝日麦酒株式会社
高水忽布農業協同組合

昭和ノ初期 外國産忽布ノ價格が國産品ヲ下マワリ 加ウルニ國産品使用ニツキ 品質上ノ非難ガオコツタタメ 國内耕作ハ減産ナイシ中絶ノ危機ニノゾミ 耕作者ハ一大苦境ニ陥ッタ 時二大日本麦酒株式會社ノ常務取締役デアツタ山本為三郎氏ハ 麦酒事業ノ自主ト國産品育生ノ必要ヲ痛感スルトトモニ 耕作者ノ苦境二同情シ 自費ヲ投ジテコレガ維持ヲハカリ カクシテ國内耕作ハ危機ヲ脱スルコトガデキタ 後二年ニシテ支那事變勃發シ ツイデ大東亜戦爭トナリ 政府部内に忽布ノ輸入ヲ禁止スル議ガオコツタガ 氏ハマタ時ノ石渡蔵相二進言シ 三年ヲ限ツテ継續輸入ノ許可ヲ得 ヨクソノ間二國内自給ノ木標ヲ達成シタ 我等 麦酒事業今日ノ發展ヲ見ルニツケ 國産忽布ノタメニ盡サレタ氏ノ功ノ多大ナルヲ想イ 茲ニソノ事蹟ヲ顯彰シテ 徳澤ヲ頌スル次第デアル

昭和三十八年四月

撰文 文學博士 倉石武四郎
製作 新海竹蔵

昭和三十八年建立

建立委員

(芳名略)

諏訪郡下諏訪町
石匠 高木明雄
仝 勇

地図

地図

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