野田醤油 発祥の地

のだしょうゆはっしょうのち

 
撮影:
2007年11月
2014年2月(写真 まさ・なち さん)

東武野田線 愛宕駅から南西に400m。京葉銀行野田支店の南側に西に入る狭い露地がある。露地の北側に小さな稲荷社があって, その前庭に「野田の醤油発祥地」という黒い石碑と「野田醤油発祥の地」と刻まれた古い石柱とが建っている。

どうして2つの碑があるのか 碑文を読み比べてみると, 本来の発祥碑は石柱の方で、黒い石碑は「この地が野田市の史跡に指定された」ことを説明するために建てられた碑であると推測できる。

野田で醤油作りが始まったのは戦国時代末期の永禄年間(1560年代頃)のことで、飯田市郎兵衛が“たまり醤油”を作り始めたのが最も古い醤油醸造の記録とされている。発祥碑は その飯田家の亀屋蔵(工場)の跡地に建てられている。

日本における醤油の発祥は和歌山県の湯浅(醤油発祥地 参照)で、鎌倉時代に味噌の桶に溜まった汁=たまりを調味料として作り出したのが最初とされる。江戸時代初期までは 近畿地方と四国の讃岐などからたまり醤油が供給されていた。しかし、たまり醤油は製造から出荷まで3年程の長期間かかり, 生産量が需要に追いつかず、関東では 銚子・野田などで“こいくち醤油”が, 関西では 兵庫県たつので“うすくち醤油”が開発された。

江戸時代, 人口が急激に増加し大消費地となった江戸の需要を満たすために、それまで海路を船によって運ばれていた関西の醤油にとって代わって江戸川による水運によって経済的に商品輸送が可能になった銚子と野田での醤油生産が本格化し, 江戸市中の需要を賄うようになった。銚子では“ヒゲタ印”の醤油が, 野田からは“キッコーマン印”などが出荷された。

醤油メーカーは 戦後の一時期には2000社を超えていたと言われるが, 近年は大手メーカーによる寡占化が進んでいる。都道府県別のシェアは, 千葉県が35%, 兵庫県が15% (2006年)で, この2県で半分を占めている。主なメーカーは キッコーマン(野田市)、ヤマサ(銚子市)、ヒゲタ(銚子市)、ヒガシマル(兵庫県たつの市)、盛田(平成25年=2013 までは、マルキン忠勇:香川県小豆島)など。

写真

  • 野田醤油発祥の地
  • 野田醤油発祥の地
  • 野田の醤油発祥地
  • 野田醤油発祥の地 側面
  • 野田の醤油発祥地
  • 野田醤油発祥の地 側面
  • 野田醤油発祥の地 側面
  • 野田の醤油発祥地 側面
  • 野田の醤油発祥地 側面
  • 野田醤油発祥の地(2014)

碑文

野田醤油発祥の地

昭和二十六年文化の日
野田市教育委員会

野田の醤油発祥地

史跡由来

この地は室町時代永禄年間に飯田市郎兵衛家が初めて野田で醤油を 醸造した飯田家亀屋敷の遺跡である
昭和四十六年一月二十七日 野田市文化財に指定されている

茂木啓三郎書

地図

地図

野田市野田 付近