寒天 発祥之地

かんてんはっしょうのち

京都市立伏見中学校(京都市伏見区御駕籠おかご町97)敷地南東隅、児童館との境目近くに建碑、令和2年(2020) 12月27日(寒天発祥の日)に除幕された。

後に、隣に説明する駒札も追設置され、なぜか瞬間的にエイジングされた。

丹波寒天碑(亀岡市)からもわかるように、江戸時代前期1658年(万治元年頃)、現在の御駕籠町にあった旅館 美濃屋太郎左衛門で参勤交代の途中に立ち寄った島津家をもてなすための心太ところてんが屋外に置き忘れられて凍り、乾燥して偶然生まれたと考えられている。当然、その旅館はすでに跡形も無いわけだが、近所の仏壇から美濃屋を示すとみられる地図が発見され、伏見寒天プロジェクトのメンバーたちによって紐解かれていった。

「伏見寒天プロジェクト」について平成29年(2017) 頃にニュースになり、場所をズバリ突き止めて石碑を建設したいということが当初より語られていた。印刷物を刊行して頒布したり、12月27日を寒天発祥の日として記念日協会に登録するなど、地味なところでも基礎を固めてきた。

写真

  • 寒天発祥之地
  • 寒天発祥之地 側面

碑文

寒天發祥之地

伏見區御駕篭町

寒天発祥之地

伏見での寒天製造は、一八世紀初頭に編纂された『和漢三才図会』の石花菜(ところてん)の項に「城州伏見の里にて之製す」と寒天の説明があり、江戸時代初期には伏見で主に生産されていたことがうかがえる。一八世紀後年の伏見を紹介する『伏見鑑』には、「元来、伏見にて作初る産物なり」とあり、伏見が寒天発祥であるとしている。この他、同書には、御駕籠町に寒天仲間が置かれていたとある。また、大正時代にかけて、寒天を材料の一つとする練羊羹が伏見名物となっていた。伝承として、薩摩の島津公への食事接待の際に、偶然、製法が発見されたことや、黄檗万福寺の隠元和尚による命名、寒天発祥は美濃屋であるといったことなどがある。特に、美濃屋については土地台帳で、近代に御駕籠町に存在したことが確認できる。このように、御駕籠町を中心に伏見には寒天にまつわる史実や、発祥の地とする伝承が多数存在し、これらを考慮すると江戸時代、伏見が寒天の産地であったことは間違いなく、発祥の地とすることもほぼ確実である。なお、近代以降は、冬の冷え込みがより厳しい、大阪府三島郡北部から京都府南桑田郡樫田村(現在の大阪府高視市)、更には長野県方面に産地は移り、現在は伏見で生産されていない。令和二年一二月二七日には有志により、御駕籠町に隣接する京都市立伏見中学校 に「寒天発祥之地」の碑が建てられた。

京都市

地図

地図

京都市伏見区御駕籠町 付近 [ストリートビュー]